2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」。主演は長崎出身の福山雅治さん。「龍馬伝」をたのしめる情報を発信するブログです!“「龍馬伝」と長崎を盛り上げよう!”

2011年10月02日

小曽根家17代当主、吉郎・育代氏御夫妻の講演(横須賀市大津)

 横須賀市大津観光協会の「おりょうさんまつり」が10月6日(木)~10日(月)に開催されます。9日(日)13:30~15:30には、長崎・小曽根家17代当主、吉郎・育代氏御夫妻の講演があります。
テーマは「おりょうさんが輝いたとき~長崎日和」です!


 http://www.cocoyoko.net/oryou_matsuri/index.html

 龍馬の長崎時代、長崎の豪商小曽根家は亀山社中・海援隊を物心両面で援助した。龍馬の妻お龍は、長崎で小曽根家の長男乾堂(けんどう)の妻お常や娘お菊に月琴を習ったとされています。
 自分は、2年前に育代夫人の著書「お龍さんの長崎日和」を読んだことがキッカケで小曽根氏宅で2度話を伺いました。
 昨年8月以来の再会を楽しみにしております!


 小曽根 育代氏の著書「お龍さんの長崎日和」長崎新聞社発行



































 2010年8月18日 小曽根氏宅にて、小曽根氏夫妻(左側)と私  

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2011年05月17日

「勝海舟生誕之地」へ行きました

 JR両国駅から徒歩10分、両国公園内に龍馬の師である「勝海舟生誕之地」の碑があります。






 法務大臣 西郷吉之助書と彫られています。西郷隆盛は勝海舟より早く亡くなったはずなのに何故?
西郷隆盛の孫の名前も西郷吉之助(1906年~1997年)、石碑は孫の書でした。佐藤内閣の時に法務大臣を務めたようです。


 両国公園(勝海舟生誕地)から徒歩5分の場所に回向院があります。回向院境内は天保4年(1833)から76年間、相撲興行本場所の地であったそうです。海舟が長崎の福済寺に滞在した時に、同行していた龍馬と相撲を取った。龍馬173cm、海舟150cmで、海舟は持ち上げられ足をバタバタさせていたという逸話があります。海舟も回向院での相撲を観たのでしょうね。下右の写真は境内にある「力塚」



















 回向院には「鼠小僧次良吉(俗名 中村次良吉)」の墓もあります。
鼠小僧って実在の盗賊だったんですね。戒名は教覚速善居士、いい戒名だなあ・・・・?
鼠小僧の墓石を欠いて財布や袂に入れておけば”金回りがよくなる、持病が治る”といわれているそうで、本来の墓の前に「欠き石」(白い色の石)という供養碑が置かれています。
成就した人の奉納した「欠き石」は、数年毎に建て替えられ続け現在までに数百にもなっていると記述されてました。
 勿論コツコツと叩いて、削った粉末を持ち帰り、財布にいれましたよ!






 実は当日5月14日(土)は、15時から東京・四ツ谷で会合の予定でした。
両国国技館では、技量審査場所が開催されており当日券(無料)がAM8:00から1000枚配布されるとのこと。長崎工業高校の同窓生で序二段西2枚目佐田ノ濱(境川部屋)は、前日まで3戦全勝で14日も取組予定あり。
 AM5:40に相模原の自宅を出てJR両国駅に着いたのがAM7:30。国技館の敷地内には、かなりの列。
並んだ場所は、国技館の入口前からJR両国に向かう道路。相撲協会の係の方が「これから並んでも入場券は手に入らないかもしれません」。駄目かなと思いながらも並んだ。自分の後ろにも続々と増え、係の方のアナウンスが「これから並んでも入場券は手に入りません」に変わったが、AM8:00には自分より後ろに500人以上はいた。
 AM8:30、いよいよ自分達の列も動き始めた。「もらえるか?」微妙、AM8:40あと50名位のところで「本日の配布は全て終了しました。残念・・・・ということで「勝海舟生誕之地」他、両国周辺を散策しました。

 力士の幟はなく、さびしい。バックにスカイツリー






 佐田ノ濱は14日(土)は負けました。次は17日(火)の取組です。
佐田ノ濱は長崎市飯香浦町出身、昨年4月29日六郷土手での恒例「長崎凧(ハタ)揚げ」に参加してくれました。境川親方は元小結 両国、長崎市茂木町出身です。
みなさん応援宜しくお願いします。








 旧安田庭園から観たスカイツリーです。関東大震災及び戦没者を慰霊した東京都慰霊堂がある横網町公園も近くにあります。



  

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2011年05月13日

「亀山社中資料展示場」へ行きました

 久しぶりのブログです。
ちょっと前(いや3月末のことですからずいぶん前)、半年振りに長崎に行ってきました。
 「浜の町」から「風頭山」行きのバスに乗り終点で下車、風頭公園・龍馬像を経由して「亀山社中資料展示場」へ行きました。

 風頭公園・龍馬像の前からの眺めが好きで何度も来ています。大浦天主堂や南山手の洋館の先に見える「女神大橋」、三菱重工の造船所のドックと港内を行きかう船の白い波、テレビ塔のある稲佐山(2009年8月福山雅治さんの”音返し”コンサートもやったところ。さだまさしさんが20年間無料コンサートをやったところ)天気もよく、ゆったりとした時の流れでした。

 昨年は「龍馬伝」効果で賑わっておりましたが、土曜日の1時間程に団体客は1組だけでグループの観光客も多くありませんでした。

ゴールデンウィーク中の観光客も長崎歴史文化博物館は前年比約7割減、長崎まちなか龍馬館が約6割減と龍馬に関連した施設は大幅に減ったようですね。予想されていたこととはいえ残念。































 長崎に来る2週間前の3月11日14時46分、東日本大震災発生。
地震発生時は、神奈川の自宅で国会のテレビ中継を観ていました。「緊急地震警報」がテレビ画面に表示後、天井から吊り下げている照明が激しく揺れ、船に乗って大きな波にあったような・・・・神奈川に住んで40数年、揺れが大きく・時間も長く、これまで体験したことのない地震でした。
 揺れのあとリアルタイムで津波の様子がテレビ中継され、地震・津波・原発事故と刻々と未曾有の災害であることが伝えられました。
2ケ月経っても復興の目途さえ見えてこない状況に被災者の方の心境を察すると、やるせなさ・いらだち・怒りの気持ちが湧いてきます。
 昨日、東京電力の発表で福島原発1号機でメルトダウン(炉心溶融)が起きているという。
えーっ今さら、そんなことを!。
 現場で作業に携わっている方の懸命な働きには、敬意を表するし継続して頑張りを支援しなければならない事態だと思います。しかし事故収束を目指す対策・対応の根幹部分に甘さがあるのでは・・・・・

 下の写真は龍馬像からJR長崎駅、その奥の浦上方面を観たものです。昭和20年(1946年)8月9日原子爆弾が落とされた時、左下に見える丸いガスタンクの場所から浦上の方は壊滅的な惨状だったそうです。
 4年前に90歳で亡くなった母は、爆心地から1.2Kmの茂里町にあった兵器工場で働いていました。爆風に倒されたものの通常徒歩で1時間弱で帰れる自宅(海星高校、東山手の近く)へ一晩かけて帰ってきたそうです。
亡くなる10年程前から何度も聞いた話ですが「歩いて帰ってきて大仁田さんの防空壕の前で、もらったおにぎりが本当においしかった」そうです。
*大仁田さんは、当時長崎で風呂敷などを扱っていた名店でプロレスラーで元参議院議員の大仁田厚さんの親族の方だ?ということでした。
 母は被爆者健康手帳を所持しており毎年受診していました。幸い原爆症の顕著な症状は出ませんでした。私自身は被爆二世ですが、兄弟も含め原爆の影響はありません。
 福島原発を早く収束して欲しい。とにかく新たな放射能の外部への流出を食い止めて下さい! 
 





















 前置きが長くなりましたが「亀山社中資料展示場」です。
「亀山社中資料展示場」は平成元年に地元住民や市内有志で結成された「亀山社中ば活かす会」の方が古写真や資料の展示・説明をされています。入館は無料で「龍馬伝」にあわせ平成22年1月からは無休となっているようです。(以前は、たしか土、日、祝日だけの開館だったようです)

 多くの色紙がありました。「龍馬伝」関係の方、ソフトバンクの孫正義さん、さだまさしさん、長崎の豪商・小曽根乾堂の子孫で17代当主小曽根吉郎さん等々。
 








 


 面白いものが掲示してありました。
 亀山社中・海援隊・新海援隊・振援隊(元海援隊)士名簿です。45名の名前があり、それぞれがどの組織に所属したかが分ります。
龍馬死後の海援隊は長崎奉行所西役所を占拠した者達と長岡謙吉等の京都や大阪に残留した者達に分かれていた。
新海援隊は長岡謙吉等が塩飽諸島で活動、長崎に残った者は長崎奉行が町の治安を守るために組織していた「遊撃隊」から改められた「振援隊」に参加した。そして奥州地方へ出征(戊辰戦争)、各地を転戦した。








 昨年夏の亀山社中記念館前は、入館待ちの方の暑さ除けのために工事用パイプで仮設のよしずが架かっていました。この賑わいを一過性のものとせず、地道に長崎の魅力を伝えていきましょう!














ガンバレ日本! ガンバレ東北! 
そしてガンバロウ 長崎!
  

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2010年11月21日

「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」高山みな子氏(勝海舟玄孫)講演

 龍馬伝もいよいよ大詰め、21日放送は「大政奉還」。予告編では勝海舟(武田鉄也さん)も登場するようですね。おひさしぶり!
 11月3日東海大学湘南校舎であった高山(こうやま)みな子氏(勝海舟の玄孫)の「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」講演会に行ってきました。当日は東海大学の建学祭が開催されており、高山氏の講演は機械工学科のOB会(機友会)が企画したものです。聴講者は約30名、予想したよりはるかに少ない。あまり広報されていなかったためか?(キャンパスのなかで大学関係者に聞いても、あまり把握されておらず会場を探すのに手間取りました)



 講演は約90分間。内容は多岐に亘り古地図や参考文献、勝家に伝わるエピソード等、たいへん興味深いものでした。下記チラシの「ひ孫」は「玄孫」が正しい。



・海舟は家庭では、厳しかった。
・海舟も龍馬も下町生まれ。干支は「ひつじ」、二人の師である佐久間象山も「ひつじ」、海舟の妹が象山の妻になっている。
・海舟日記(原本は江戸東京博物館にあるそうです)には、龍馬に関する記述は20ケ所。龍馬の事を「坂本龍馬子」と書いているが、子とは親しい者につけるそうで、海舟が龍馬の事を認めていたことが分かる。
・薩長同盟、大政奉還など龍馬の行動について海舟は情報を得ていたし理解もしていたのだろう。
・海舟に同行して長崎に行き福済寺に滞在した時、海舟と龍馬が相撲を取った。龍馬173cm、海舟150cmで、海舟は持ち上げられ足をバタバタさせた。
海舟の「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張。我に与からず我に関せずと存候」と龍馬の「世の人は我を何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る」には相通じる考え方があるようだ。
・土産話として紹介がありました。岩崎弥太郎の日記に「龍馬から短刀を所望されたが、代わりの物をあげ、所望されたものはあげなかった」旨の記述があるそうです。その龍馬が欲しがったという短刀が鎌倉の正宗工芸美術製作所さんにあるそうです。

 講演後、直接高山氏と話すこともできました。たいへん楽しい時間でしたありがとうございます。

 11月5日テレビ東京放送の「幕末の日本人がスゴイらしい」で歴史家など40名に聞いた「幕末のスゴイ人物」アンケートで1位勝海舟、2位坂本龍馬でした。
 高山みな子氏も出られていて「勝海舟と言いたいところなんですが・・・大浦慶」と答えられました。

 今日の「龍馬伝」で龍馬と海舟の再会は、どのように描かれるのか・・・楽しみです!

  

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2010年10月19日

三菱重工業 長崎造船所 「史料館」(岩崎家コーナー)

 長崎市飽の浦町の三菱重工長崎造船所史料館には、2010年4月1日から三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎から四代社長までの「岩崎家コーナー」が新設され約40点が展示されています。
 中段右側の写真が「岩崎家コーナー」です。
弥太郎が履いていた高下駄が印象に残りました。下駄を入れる箱には「大旦那様 御下駄箱」と書かれていました。(弥太郎は自分のことを「だんな」と呼ばせていたそうですね)
 *三菱初代社長は弥太郎、2代目弥之助(弥太郎の弟)、3代目久弥(弥太郎の長男)、4代目小弥太(弥之助の長男)

 赤煉造りの史料館は、明治31年(1898)に造船所の「木型場」として建設されたもので三菱長崎造船所に現存する最も古い建物だそうです。
 館内は13のコーナーに別れ、安政4年(1857)官営長崎鎔鉄所から現在に至るまでの写真や日本最古の工作機械、国産最初の陸用蒸気タービンなども展示されています。小菅の修船場のソロバンドッグの模型もありました。
 昭和20年8月の空襲や原爆の爆風にも耐えた建物が、史料館として活用されていることを嬉しく思いました。






























 入場は無料で日曜、祝日も開館していますが、工場の敷地内にありますので事前に予約することになっています。  

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2010年10月16日

千葉さな子の墓(甲府・清運寺)

 10月15日は千葉さな子(龍馬伝では佐那、貫地谷しほりさん)の命日です。
甲府・清運寺に行ってきました。
 墓石は台座を含めて高さ約100cm、幅約40cmで小田切家の墓所内にあります。
裏面には明治廿九年十月十五日逝 坂本龍馬室、左横面に小田切豊次建立と刻まれています。





















清運寺本堂                       清正公堂(清運寺入り口にあります)



















小田切家の墓所
 清運寺本堂の後ろの墓域に整然と建てられています。
中央に小田切謙明と妻豊次の墓、千葉さな子の墓は左端にあります。
 謙明・豊次の墓石の碑文は、謙明の自由民権運動に関する記述のようです(よく分かりませんでしたが・・・)
 板垣退助は読めました。






















 清運寺の近く徒歩1~2分の酒屋さんで純愛酒「佐那の愛」(大冠酒造:山梨県南アルプス市)を
買いました。
 定価¥200の冊子付で¥1,470でした。


 酒屋さんは、清運寺さんの檀家だそうで、5月から売り出したそうです。ワインもありました。
酒屋さんの女性の方と男性のお客さんと佐那のこと、お龍のこと、加尾のことや龍馬伝のことで約20分楽しい会話でした。










 
 清運寺までは甲府駅北口から徒歩約15分です。手作りの案内が何箇所かにありましたが、分かりにくかったです。
龍馬の妻、 お龍の墓がある横須賀・京急大津周辺に比べれば、ちょっと静かでした。(妻と婚約者の違いか・・・?。もちろん墓は静かにお参りするものですが)

 

















 純愛酒「佐那の愛」に付いていた冊子のなかの地図が分かりやすいようです。




 甲府、甲斐の国といえば
甲府駅南口には武田信玄像が建っています(座っていますけど・・・)。




  

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2010年10月16日

薩長同盟裏書(龍馬自筆)を観ました!特別展「皇室の文庫」

 10月17日まで皇居・三の丸尚蔵館で、特別展「皇室の文庫(ふみくら)」が開催されています。
宮内庁が保管してきた古典、絵巻や文書など、初公開のものも多く極めて貴重な名品41件が展示されています。










 

 明治維新期の文書3件のうち、龍馬自筆の薩長同盟裏書の原本も展示されているんです! 
そうなんです! 龍馬が慶応2年(1866)1月23日に寺田屋で傷を負ったあとに書いたものです!
 桂小五郎(木戸孝允)が書いた「薩長同盟」6ケ条の裏に朱書き(今も鮮明)で書かれていました!
明治維新期の他の文書2件は五箇条御誓文(原本控)と憲法発布式図です。




















 表に御記入なされ候
 六条は小、西両氏及び
 老兄龍等も御同
 席にて談論せし
 所にて毛も相違
 これなく候 将来と
 いへども決して
 変わり候事なき
 は 神明の知る
 所に御座候

 丙寅
 二月五日  坂本龍
 


 龍馬伝では龍馬(福山雅治さん)が傷を負った左手の痛みに耐えながら、お龍(真木よう子さん)の介助を受けながら筆を持つシーンがありましたね

 書物やネットでは何度も見ていますが、実物を眼の前に龍馬の命を懸けた激情に触れることができました。

 特に文中の「毛」「決して」そして署名の「坂」「龍」に熱い思いが込められているような印象でした。



  

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2010年10月12日

いろは丸談判(聖福寺)、イカルス号英国水夫の墓、長崎奉行所跡

 龍馬伝10月10日放送「さらば高杉晋作」(旧タイトルは海援隊始動)では、土佐藩と手を結び亀山社中から海援隊へとなって再出発。
 長崎土佐商会の主任となった岩崎弥太郎の尽力で伊予大洲藩から「いろは丸」を借り受けることに成功。

 「いろは丸」を使って海運ビジネスを展開、大政奉還を目指すが・・・・・・
10月17日放送「いろは丸事件」、10月31日放送「英国水夫事件」と大きな事件が発生。
 窮地に追い込まれる龍馬が機転と行動力でどう突破するか? 楽しみです!

 事件に関係する聖福寺(長崎市玉園町)、英国軍艦イカルス号水夫の墓(長崎市川上町、大浦国際墓地)、長崎奉行所跡(長崎市立山、現長崎歴史文化資料館)へ行きました。


 聖福寺(長崎市玉園町)
 龍馬等の意を受けた土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎が参席し「いろは丸事件」の談判を紀州藩宿の聖福寺で行った。
 聖福寺はさだまさしさんの映画「解夏(げげ)」の撮影にも使われました。
「いろは丸事件」は慶応3年(1867)4月23日、龍馬率いる海援隊の「いろは丸」(160トン)と紀州藩の大型船「明光丸」(880トン)が瀬戸内海で衝突。
「いろは丸」は「明光丸」に曳航されて鞆の浦(広島県福山市鞆町)に向かうが、途中で沈没。乗員34名は「明光丸」に乗り移り無事だった。
























 2010年1月7日(朝日新聞夕刊)





























イカルス号水夫の墓(長崎市川上町、大浦国際墓地)
 慶応3年(1867)7月6日深夜、英国軍艦「イカルス号」水夫2名(ロバート・フォード、ジョン・ハッチングス)は泥酔し、長崎丸山の引田屋前に寝そべり何者かに殺傷された。
 「白木綿、筒袖、袴を着た侍が逃げ去った」という証言から、似た服装の海援隊士に嫌疑がかけられた。
長崎に来港した駐日英国公使ハリー・パークスは激高し長崎奉行と会談し抗議。
 薩英戦争の再来を心配し平和的解決を願う幕府の意向が伝えられるなか、8月に土佐須崎港での後藤象二郎とパークスおよび駐日公使館員アーネスト・サトウ等が談判したが、パークスの推測に証拠はなく長崎での検証を決めた。
9月6日、長崎奉行所は「お構いなし」の判決を下した。
 パークスは、その後も事件を追及し明治になって犯人は福岡藩の金子才吉と判明。金子は犯行の夜に自殺し、福岡藩はそれを隠していた。

 大浦国際墓地に埋葬されている方の多くは停泊中に死亡した艦船の乗組員だそうです。
イカルス号水夫の墓は大浦国際墓地の入り口から2段目の左側への通路の奥にあります。黄色い彼岸花が咲いていました。







































長崎奉行所跡(長崎市立山、現長崎歴史文化博物館)
 




















 イカルス号事件で取調べを受けた龍馬は、アーネスト・サトウの言い分を馬鹿にするように高笑いしたそうです。サトウはその時の印象を「悪魔のように恐ろしい顔」と日記に書いているそうです。




















石垣及び石段に使用されている石は、復元するにあたり発掘された石も使われているそうです。(石垣及び石段の下段の部分。石の色が違っています)











長崎歴史文化博物館のロビーには、龍馬と弥太郎両雄の力強い像が立っています。




















































 薩長同盟が成立したのも束の間、寺田屋の襲撃で重傷を追った龍馬。
 身辺に危険の迫る龍馬はお龍(真木よう子さん)を長崎小曽根邸から下関へ。 
えーっ ! もうお龍は下関に行ってしまうの ! 
 お龍の月琴を聴きたかったのに残念 !
 
  

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2010年10月08日

「龍馬が愛した女性たちー佐那・加尾・そしてお龍」の講演会

 お龍の墓がある信楽寺(しんぎょうじ、京浜急行 京急大津駅徒歩5分)で毎年営まれている第22回 坂本龍馬の妻龍子墓前祭が10月9日に実施されます。
 今年は「龍馬伝」による盛り上がりをうけ、1日から10日まで「おりょうさんまつり」としてパネル展やウォーキング、特別講演も開かれています。

 10月2日に鈴木かほるさん(横須賀市在住、中世史家、三浦一族研究会)の特別講演「龍馬が愛した女性たちー佐那・加尾そしてお龍」に行きました。

 昨年5月に在京長崎応援団塾が発足。メンバーの多くが長崎に寄せる熱い思いで高尚なテーマで活動するのをみて、とにかく何かやらねばということで「龍馬伝」のおっかけ”龍馬伝と長崎を盛り上げよう”を始めました。

 まず手始めに読んだ著書のひとつが鈴木かほるさんの「史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍」でした。







 鈴木かほるさんがこの本を書かれた動機は、2006年にお龍の没後100年を迎え地元横須賀・大津のイベントにあわせ多くの資料を収集されたそうです。その過程でお龍(楢崎龍)については俗説や誤謬が氾濫し、酒豪などマイナスイメージが強調されすぎているのを真実に近い姿を知らせたいとの思いからだそうです。

 講演の内容は、上記著書の内容に沿ったものでした。
 ・龍馬に好意を寄せた女性は多い。そのなかで加尾・佐那・お龍については、龍馬の手紙からも龍馬が愛した女性であったことが分かる。  いずれも侠女といわれる女性だった。

 ・通説では生涯独身だった佐那に結婚歴ありとの報道(2010年7月)に関しては、未調査だとのことだった。

 ・30歳頃のお龍の写真。2008年5月の科学警察研究所の鑑定結果、「別人と判定するに足る形態学的相違点は認められない」に関しては、まだ「伝 お龍」の写真とすべきとの見解だった。

 ・西村松兵衛と再婚していたにも拘わらず、お龍の墓碑に「龍馬之妻」と刻まれ、且つ施主がお龍の実妹光枝だったいきさつを詳しく話された。




 










 龍馬伝32回狙われた龍馬(8月8日放送)で、寺田屋のお登勢がお龍に「坂本さんは、ひとりのオナゴを幸せにするために生まれてきやはったんじゃない。坂本さんが幸せにしたいのは世の中すべてのひとや」のシーンがありました。
 龍馬には初恋のひとといわれる平井加尾、婚約したといわれる千葉佐那そして妻となったお龍。龍馬と出会って幸せだったかどうか・・・・・・・・

 8月8日放送では、こんなシーンもありました!
佐那の兄千葉重太郎が「佐那のもとに戻ってきてくれ。君も佐那のことを好きだといったじゃないか!」に対し龍馬は「尊敬しちょりますといったんです」とは・・・・・・
 龍馬の気持ちは既に佐那からお龍へいってたんですね 



 京急大津駅周辺は盛り上がってました!
 2010年10月8日付 朝日新聞朝刊






























よこすか龍馬会による「月琴の演奏と語り」。 龍馬やお龍の衣装の方もいっぱい歩いてました!
  

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2010年10月03日

長崎・風頭公園の愛称を 「風頭龍馬公園」 にしましょうよ!

 龍馬伝9/19放送の ”霧島の誓い”で龍馬(福山雅治さん)の入浴シーンがありました。
お龍(真木よう子さん)の入浴シーンは ?

 昨年10月、品川プリンスホテルの「龍馬伝サミット」(龍馬伝関係自治体首脳会議)で霧島市の前田市長が入浴シーンを懇願されてました。 自分の期待は二人揃っての入浴シーンだったので、ちょっと残念!

 放送の最後の龍馬伝紀行で霧島市の「塩浸温泉龍馬公園」が紹介されました。
みつけました! ネーミングに龍馬が入っているんです! 
 建物の老朽化により2009年3月に入浴施設を一旦閉鎖、入浴施設や龍馬に関連した資料等を展示する施設を整備し2010年5月1日に再開し、名称を「塩浸温泉龍馬公園」としたようです。























 前にも何回か書きましたが長崎の「風頭公園」にも愛称として龍馬を冠せて欲しい!!!
  
 対象エリアは、今春整備された龍馬像から亀山社中跡・若宮神社方面へ進むエリアがいいかなあ。


































 











 「龍馬伝」を機会に「龍馬と長崎の関係」をより深く認知してもらうため「風頭龍馬公園」を実現させたいなあ!



   

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2010年09月23日

おりょうさんまつり(横須賀・大津観光協会)

 久しぶりに横須賀の”やきとり竜馬におまかせ”に行きました。
 
 





















京浜急行「横須賀中央駅」東口を出て社会保険事務所を目印に行くといいと思います。








店主の齋藤秀一さんからおりょうさんまつりの情報を得ました。
おりょうさんまつり: http://www.cocoyoko.net/oryou_matsuri/index.html


 お龍の墓がある信楽寺(しんぎょうじ、京浜急行 京急大津駅徒歩5分)で毎年営まれている第22回 坂本龍馬の妻龍子墓前祭は10月9日に実施されます。
 今年は「龍馬伝」の放送もあり、10月1日から10日まで大津コミュニティセンター(京急大津駅徒歩1分)ではパネル展や特別講演等も実施されます。


 10月2日(土)の特別講演は、「史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍」の著者鈴木かほる氏の「龍馬が愛した女性たち 佐那・加尾そしてお龍」 興味あります!  

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2010年09月10日

平井加尾と後藤象二郎の墓に行きました(東京・青山霊園)

 龍馬伝は、次回9月12日放送「龍馬の妻」で龍馬(福山雅治さん)とお龍(真木よう子さん)は結婚します。
 薩長同盟という大きな仕事を成し遂げたのもつかのま、寺田屋で襲われお龍の機転により九死に一生を得た龍馬。一段と危険がせまるなかでのカップル誕生です。
 
 初回1月3日の放送から登場した幼馴染で初恋の女性と言われる平井加尾(広末涼子さん)。

 「坂本龍馬等寄せ書き胴掛け」(袱紗)の実物を4月28日に江戸東京博物館の特別展で観た。
龍馬と加尾の想いが書かれたものであるが、高知そして京都で龍馬との愛を互いに自覚しながらも、尊皇攘夷の政局のなかで引き裂かれてしまった。

 加尾は龍馬とお龍が結婚した1866年に元土佐勤皇党員西山志澄と結婚。西山志澄は後に国会議員や警視総監にもなり、加尾は明治42年73歳で亡くなるまで(お龍や千葉佐那に比べれば)平穏で幸せに暮らしたようです。

 平井加尾の墓(1種ロ14号9側)
 「西山家」「平井家」と彫られています。昭和43年に新しく建立されたようです。
 なぜか「西山家」と「平井家」の書体が違っています。
 墓誌の最初に西山加尾(明治42年没)、次に西山志澄(明治44年没)と刻まれています。
 なぜか加尾の享年は刻まれてありません。











































 龍馬伝10月3日放送予定は「清風亭の対決」が予定されています。
慶応3年(1867)1月13日、仇敵であった龍馬と後藤象二郎(青木崇高さん)が長崎・清風亭で会談し和解。亀山社中は土佐藩傘下の海援隊となる。
 清風亭会談は日本回天の重要な舞台となった場所と言われる。


後藤象二郎の墓(1種イ13号24側)



 中央が象二郎の墓、右が妻磯子の墓、左が後妻雪子の墓。
この墓の前には象二郎の三男及び四女の墓や後藤家関係の墓が並んでいる。






















 青山霊園は広大な霊園ですが、加尾の墓と象二郎の墓は墓地中央道路を挟んで近い場所にあります。
 加尾の墓は”西七通り”、象二郎の墓は”東十通り”にあります。
 
  

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2010年08月31日

長崎に着きました。NO.4 長崎の街と龍馬伝他、いろいろ

 約1ケ月の長崎滞在、やることが多かったのと猛暑・猛暑で・・・行きたいと思ったところもいくつか断念。

まちなか龍馬館の龍馬像
ワイル・ウェフ号が遭難した上五島に建立された「五島祈りの龍馬像」のレプリカ。風頭公園龍馬像と同じ山崎和國氏の制作、逞しい腕と整った顔です!

























武田鉄也さんの「海援隊」メンバーの寄せ書きもありました!





















 7月28日、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)の特別企画展「長崎の海と船展」に行きました。前日、展示されている資料のなかに、海援隊が伊予大洲藩から借り受け瀬戸内海を航行中に紀州藩の「明光丸」と衝突し沈没した”「いろは丸」とみられる絵画資料が見つかった”ということで報道陣が来場者へインタビューをしていました。

 したたかなイギリス人貿易商トーマス・グラバーの息子倉場富三郎は偉大な父とは違い地道な生き方だったそうです。富三郎は魚の研究をしており、富三郎が編纂した「グラバー図譜」(魚を詳細に描いた絵、全体では約800枚)の一部も展示されていました。

 昨年3月末、長女の夫が長崎へ転勤。関東から引越しの手伝いに行った妻と娘が、歴史民俗資料館に行き、たまたま永松館長と会話。ちょっとした会話がキッカケで昨年5月に長崎市制120周年の企画展で、自分が高校3年の時東京オリンピックの聖火リレー(長崎市)で使用した”ランニングシャツ”が展示されました。
 それが縁で歴史民俗資料館は何回か訪ねております。常設展のほか、いろんな企画展が実施されています。
 8月21日には、咸臨丸の乗組員の御子孫である小杉伸一氏の「子孫から見た咸臨丸の歴史」の講演も開催されています













 「ながさきみなとまつり」で7月31日(土)と8月1日(日)の連日、各5000発の花火が打ち上げられました。開始時刻は20時50分からです!関東とは1時間の差があります。あらためて陽の長さの違いを感じました。
 長崎は、盆地で周囲の山に音が反響して「ドドンッ、ドンドーン」と音の余韻が楽しめます。
1日目は高台にある我家の墓で、2日目はオランダ坂の洋館越しに見ました!





 8月15日は精霊流し、さだまさしさんの父佐田雅人さんの大きな船もありました。
さだまさしさんは、紋付・袴で船の前を歩いておられました。













 龍馬伝には、多くの方がエキストラとして協力されていますが、陸上自衛隊大村駐屯地の25人が中国人貿易商、職人、通訳などで出演。皆さん髪を剃っての参加だったそうです。 




  

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2010年08月29日

長崎に着きました。NO.3 大浦お慶の墓

 大浦お慶(余貴美子さん)は、長崎の油商に生まれ10代で大浦家を継ぐ。英国貿易商オールトと組んで日本茶の製茶貿易で莫大な富を得た。亀山社中・海援隊のスポンサーでもあったとされている。
 後に「遠山事件」と呼ばれる詐欺事件にあい没落したが、借金は死ぬまでに完済していたとされる。
 小曽根乾堂(本田博太郎さん)と同じ文政11年(1828)生まれ。
 龍馬伝では、乾堂他長崎の豪商達とのマージャンでも女傑ぶりを発揮。乾堂とのやりとりのシーンで龍馬(福山雅治さん)への支援(投資)を「つばをつけたとは、うちが先ばい・・・・」は面白い
 大浦お慶の邸宅跡は、浜町アーケードを抜け、トルコライスで有名な「ツル茶ん」の近くで簡単に見つけられるが、墓を探すのにはちょっと迷った。

 路面電車終点「正覚寺下」から歩いてみたが、それらしき標識が見当たらず猛暑のなか「まちなか龍馬館」へ行き担当の方に聞く。ややあいまいだが清水寺にあるのではとの返事。清水寺へ向かう。

清水寺の入り口にある説明。
お慶は清水寺に熱心に参拝したとのことです。






















お慶の墓は、説明板の右方向に歩くと標識がありました!

















お慶の墓は、大浦家の墓地にあります。
左から4番目が、お慶の墓です。


   

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2010年08月28日

長崎に着きました。NO.2 小曽根乾堂の御子孫夫妻に再会!

 龍馬伝は7月18日の第29回「新天地、長崎」から長崎時代が始まりました。
幕末の10余年”日本で一番輝いていた長崎”は、和・華・蘭の文化、グラバーやオルト等貿易商の活動、各藩の蔵屋敷や出先機関が置かれ知識・情報・物資が集まる窓口であった。
 「新天地、長崎」は蛇踊りや爆竹、花街丸山、グラバー邸、崇福寺等、まさに長崎時代の幕開けでした!

 長崎時代の大きな興味のひとつは、小曽根乾堂(けんどう、本田博太郎さん)が、どのように描かれるのかでしたが、早速登場し毎回威厳があり存在感のある期待どおりの演出です。
 
 自分は、昨年11月に小曽根家17代当主吉郎(きちろう)氏夫人育代さんの著書「お龍さんの長崎日和」を読んだことが縁で昨年末小曽根夫妻に会い、それ以来連絡をとらせていただいております。
(いきさつは弊ブログ2009/12/2,2010/1/9,2010/7/18参照)

 8月18日に小曽根町の吉郎様宅を再訪し、楽しい時間を過ごさせてもらいました。

 この花瓶見覚えがありませんか?
 7月25日の第30回「龍馬の秘策」の小曽根邸で龍馬(福山雅治さん)が西郷隆盛(高橋克実さん)に、薩摩藩と長州藩が手を組むことを説いている場面で乾堂が芍薬をいけていた花瓶です。
 小曽根家所蔵の約800年位前の青磁の花瓶だそうです。




































 龍馬の長崎時代、小曽根家には4人の兄弟がいたが、四男英四郎は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも登場するが、長男乾堂に関する記述はない。
龍馬伝のNHKホームページ人物相関図の主な登場人物も4月末までは四男英四郎となっていた。(5月になってから長男乾堂に替わった)
 龍馬伝では長男乾堂の意を受けて動く四男英四郎との力関係が、よく描かれていると思う。
 かなり「お龍さんの長崎日和」を参考にされたのでは?と自分は感じているが・・・・・

 
 この件に関してご夫妻にお伺いしてみたが、長男乾堂が登場するようになったいきさつも含め全く分かりませんということですが、乾堂が描かれることについては大変喜んでおられました。
 小曽根邸の跡といえば、本博多町(現町名は万才町、現長崎地方法務局があるところ)は、よく知られており長男乾堂ももとは本博多町に住んでいた。浪の平一帯の埋立事業をして港湾を整備、万延元年(1860)に小曽根町に居を移したため、小曽根邸は英四郎の住む本博多町とグラバー邸や外人居留地に近い乾堂の住む小曽根邸があった。
 小曽根町の乾堂邸跡にも、今年になってやっと案内坂が設置されたそうです。



 小曽根町一帯の乾堂が建てた太平寺や乾堂像等を巡り、
小曽根家で育代夫人が説明される「お龍さんと小曽根家の人たち」という長崎学さるくも毎月第二月曜日に実施されています。

http://www.saruku.info/course/G167.html 

説明に使われている家系図をみせてもらいました。




































小曽根家から見た小曽根乾堂邸跡(現在駐車場になっている)と乾堂邸にあった古井戸と石垣。





 左から吉郎様、育代様、私
背景の掛け軸は、亀山社中設立の年に福済寺で行われた中秋の名月の書画会の際に書かれたもの。小曽根乾堂、日高鉄翁、木下逸雲、森春芳のほか4人の中国人の名がある。
吉郎様から、龍馬もその席にいたのかも?との話もありました。





































吉郎様のTシャツの背中には、掛け軸に乾堂が書いた「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”英語で See the whole world with your cool eye と書かれています。

”冷静に考え熱く行動する” 龍馬の生き方にも通ずるものがあるような気がします。

このTシャツは「まちなか龍馬館」の土産売場で龍馬のTシャツと並べて売られてました。


  

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2010年08月26日

長崎に着きました。NO.1 鍋島邸(神代小路)

 自分は長崎の工業高校を卒業し、三菱グループの会社に就職。今年3月に定年退職しました。
両親が亡くなり3年前から空家となっていた実家の解体工事のため京都を経由して7月末から8月20日まで長崎にいました。
 龍馬伝は、ちょうど長崎時代・・・亀山社中、小曽根邸、丸山、グラバー邸等々が登場。
地元で観られるのは楽しさ倍増でしたあ! 緊迫するシーンでも、福山龍馬さん逞しい!


 8月8日に神代小路鍋島邸(こうじろくうじなべしまてい。国指定重要文化財)に行ってきました。
文久3年(1863)、長州藩が関門海峡を通る外国船を攻撃した事件が起こった。英仏米蘭の連合艦隊は過激な攘夷政策を取る長州藩の攻撃を計画した。幕府は軍艦奉行並・勝海舟に調停役を命じた。話し合いの場所は長崎。
 海舟日記によると神戸を出港。大分県佐賀関に上陸し豊後街道を横断して熊本へ。船に乗って有明海を渡り島原へ着いた。島原から長崎へのルートは北目道(島原半島の海沿いの平坦な道)と千々石道(雲仙岳の麓を横切る険しい山道)の二つの説があります。
 佐賀藩の「神代鍋島日記」によると、勝一行は長崎からの帰途、北目道の鍋島邸(雲仙市国見町)で休息したそうです。
 勝海舟は、神戸海軍操練所の門下生10数名も同行させており、龍馬のほか亀山社中・海援隊で活躍する近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・菅野覚兵衛・新宮馬之助・白峰駿馬・黒木小太郎、池田屋事件で自刃した望月亀弥太も同行したそうです。

 鍋島邸は島原鉄道では「神代町」駅、自分の母はひとつ手前の「西郷」の育ちです。これまで「西郷」は何度も訪れていますが、今回「西郷」の親類を訪問のついでに初めて鍋島邸へ行きました。
 鍋島邸は2007年に国の重要文化財に指定されたそうです。訪れたときは、自分と娘夫婦の3名だけでしたが緋寒桜の咲く早春は約1,500名ほどの方が訪れるそうです。





 長屋門の外側からと内側からの写真です。緑色の工事用のコーンが見えますが・・・・「実は次の日(8月9日)から復元工事のため足場を組むので見られるのは今日が最後で、完成は3年後になるんです」との説明がありました。ラッキー!
 鍋島邸は庭園面積3,000㎡。一帯は伝統的建造物群保存地区になっています。












 鍋島邸があるのは、長崎県雲仙市国見町、国見といえばサッカーの町です!
道路の街灯もサッカーボールでした!
奥に写っている蟹(有明海のカニは美味)の看板にもサッカーボール!



 
 
  

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2010年08月24日

京都に行きました。NO.4 近江屋跡、池田屋跡、酢屋

 河原町や木屋町は京都の繁華街にあるが、徒歩で15分位の範囲に勤皇志士の寓居や暗殺事件の場所が多くある。

 龍馬と中岡慎太郎は、慶応3年(1867)11月15日近江屋の2階で京都見廻組に暗殺された。(暗殺者は諸説ありますが)

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑(近江屋跡)






































 古高俊太郎を捕まえた新撰組は、拷問により尊皇攘夷過激派が池田屋で謀議する情報をつかみ元治元年(1864)6月5日に密談していた志士を急襲。
神戸海軍操練所を抜け出し謀議に加わっていた土佐の望月亀弥太も負傷し、脱出後自刃した。

 龍馬伝第23回「池田屋に走れ」(6月6日放送)では龍馬(福山雅治さん)が、亀弥太(音尾琢磨さん)を探すため神戸海軍操練所から寺田屋を経由して池田屋に駆けつける途中、自刃して息絶えだえの亀弥太に遭遇するシーンがありましたよね


 
池田屋騒動之址碑





































 酢屋は享保6年(1721年)に創業し、現在も「木」の仕事を継承しているそうです!
龍馬は2階を海援隊の京都本部として使用。現在2階はギャラリー龍馬(入場料¥500)となっています。
坂本龍馬寓居之跡の碑も建っています。


 龍馬は酢屋が幕府に目をつけられるようになったため、近江屋に潜伏したそうですが・・・・その近江屋で33歳の生涯を閉じてしまった。
酢屋、坂本龍馬寓居之跡碑








  

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2010年08月19日

京都に行きました。NO.3 寺田屋

 酒蔵の街・伏見は水運で繁栄し、寺田屋は伏見でも5本の指に入る大きな船宿。女将のお登勢(草刈民代さん)は放蕩者の主人が亡くなった後も女手ひとつで宿を繁盛させた。情に厚いお登勢は面倒見がよく、後に龍馬の妻となるお龍も寺田屋に預けられた。 
 慶応2年(1866)龍馬が伏見奉行所の捕吏に襲撃された際、2階「梅の間」にいた龍馬と三吉慎蔵(筧利夫さん)に入浴中だったお龍が裸で駆け上って急を知らせた。

これがお龍が入っていた「有名な風呂です」との表示がありました。
 8月8日の龍馬伝「狙われた龍馬」では、龍馬(福山雅治さん)が入浴、お龍(真木よう子さん)が火加減をみているシーンがありました。9月5日予定の「寺田屋騒動」では、
お龍の入浴シーンはどうなるの???




















 お龍が急を知らせるため駆けあがったという階段です。

天井が低く、降りてきたら鴨居に頭をぶつけました!













階段を上がった2階「梅の間」(かなり狭い)、龍馬の撃ったピストルの弾痕が?(異様にきれい)

















現在寺田屋には、坂本龍馬が住んでいます???





























2階からは道路の向こうに川の柳が見え、近くには清酒月桂冠の大倉記念館があります。











 2009年12月16日 朝日新聞夕刊
  

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2010年08月07日

京都に行きました。NO.2 霊山護国神社、霊山歴史館

 京都東山霊山(りょうぜん)にある京都霊山護国神社は、明治維新の誕生に尽くした志士たちを祀るため慶応4年(明治元年・1868)、明治天皇の発案で創建された日本初の招魂社です。
明治維新史跡「旧霊山官修墳墓」には坂本龍馬、中岡慎太郎や木戸孝允(桂小五郎)ら1356名もの霊が眠っています。
 名前が記載された案内板があります。






 龍馬・慎太郎の墓は墓地への入口から約70段ほど上ったところにあります。
 

龍馬・慎太郎の墓は鳥居の奥、左が龍馬、右に慎太郎の墓です。









脇には、近江屋で龍馬達とともに犠牲になった下僕藤吉の墓もあります。
赤い柵の向こうに京都市街を見渡せる場所にあります。




龍馬・慎太郎の墓へ向かう坂段に「龍馬 長崎で待つ」ののぼりが、自分は昼間京都を巡ったあと19時40分発の夜行バスで長崎に向かうので自分のことを歓迎していてくれているよう!






一番高い場所(案内板では左上)に
桂小五郎(後の木戸孝允)の墓と妻幾松の墓があります。左が桂小五郎の墓、右が幾松の墓。










(右から)長州藩の高杉晋作、来嶋又兵衛、久坂玄瑞の墓もあります。











霊山歴史館では「大龍馬展」第2期(5月7日から8月31日まで)をやってました。 













我家の燕の雛5羽は8月3日に2羽、8月5日に3羽無事飛び立っていったそうです!



  

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2010年08月04日

京都に行きました。NO.1 円山公園 龍馬・慎太郎の像

 夜行バスで京都に行きました。22時53分東京・町田バスセンターを出発、京都には6時半に着きました。


 龍馬・慎太郎の像は、八坂神社に隣接している円山公園内の枝垂桜(有名なそうです)の近くを少し奥に入ったところに建っていました。
 この像は第二次大戦中撤去されたものを昭和37年に再建されたとのことです。





龍馬のアップ                 慎太郎のアップ


















 京都駅から市バス「祇園」で下車、すぐ八坂神社があります。(7月24日は)祇園祭りの「山笠巡行」だったようです。古都京都の風情を感じました(ラッキーでした)。
祇園祭りは7月1日から31日まで1ケ月続くそうで7月18日の山鉾巡行がクライマックスだったようです






















 我家の燕 
 6月13日に巣作りを始め5羽の雛がかえり、燕らしくなりました! (7月23日現在)
自宅からの連絡では、もうすぐ飛び立ちそうだとの情報です。



  

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