2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」でした。主演は長崎出身の福山雅治。「龍馬伝」を楽しめる情報を発信するブログです!

2011年05月13日

「亀山社中資料展示場」へ行きました

 久しぶりのブログです。
ちょっと前(いや3月末のことですからずいぶん前)、半年振りに長崎に行ってきました。
 「浜の町」から「風頭山」行きのバスに乗り終点で下車、風頭公園・龍馬像を経由して「亀山社中資料展示場」へ行きました。

 風頭公園・龍馬像の前からの眺めが好きで何度も来ています。大浦天主堂や南山手の洋館の先に見える「女神大橋」、三菱重工の造船所のドックと港内を行きかう船の白い波、テレビ塔のある稲佐山(2009年8月福山雅治さんの”音返し”コンサートもやったところ。さだまさしさんが20年間無料コンサートをやったところ)天気もよく、ゆったりとした時の流れでした。

 昨年は「龍馬伝」効果で賑わっておりましたが、土曜日の1時間程に団体客は1組だけでグループの観光客も多くありませんでした。

ゴールデンウィーク中の観光客も長崎歴史文化博物館は前年比約7割減、長崎まちなか龍馬館が約6割減と龍馬に関連した施設は大幅に減ったようですね。予想されていたこととはいえ残念。


「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました
「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました



























 長崎に来る2週間前の3月11日14時46分、東日本大震災発生。
地震発生時は、神奈川の自宅で国会のテレビ中継を観ていました。「緊急地震警報」がテレビ画面に表示後、天井から吊り下げている照明が激しく揺れ、船に乗って大きな波にあったような・・・・神奈川に住んで40数年、揺れが大きく・時間も長く、これまで体験したことのない地震でした。
 揺れのあとリアルタイムで津波の様子がテレビ中継され、地震・津波・原発事故と刻々と未曾有の災害であることが伝えられました。
2ケ月経っても復興の目途さえ見えてこない状況に被災者の方の心境を察すると、やるせなさ・いらだち・怒りの気持ちが湧いてきます。
 昨日、東京電力の発表で福島原発1号機でメルトダウン(炉心溶融)が起きているという。
えーっ今さら、そんなことを!。
 現場で作業に携わっている方の懸命な働きには、敬意を表するし継続して頑張りを支援しなければならない事態だと思います。しかし事故収束を目指す対策・対応の根幹部分に甘さがあるのでは・・・・・

 下の写真は龍馬像からJR長崎駅、その奥の浦上方面を観たものです。昭和20年(1946年)8月9日原子爆弾が落とされた時、左下に見える丸いガスタンクの場所から浦上の方は壊滅的な惨状だったそうです。
 4年前に90歳で亡くなった母は、爆心地から1.2Kmの茂里町にあった兵器工場で働いていました。爆風に倒されたものの通常徒歩で1時間弱で帰れる自宅(海星高校、東山手の近く)へ一晩かけて帰ってきたそうです。
亡くなる10年程前から何度も聞いた話ですが「歩いて帰ってきて大仁田さんの防空壕の前で、もらったおにぎりが本当においしかった」そうです。
*大仁田さんは、当時長崎で風呂敷などを扱っていた名店でプロレスラーで元参議院議員の大仁田厚さんの親族の方だ?ということでした。
 母は被爆者健康手帳を所持しており毎年受診していました。幸い原爆症の顕著な症状は出ませんでした。私自身は被爆二世ですが、兄弟も含め原爆の影響はありません。
 福島原発を早く収束して欲しい。とにかく新たな放射能の外部への流出を食い止めて下さい! 
「亀山社中資料展示場」へ行きました 





















 前置きが長くなりましたが「亀山社中資料展示場」です。
「亀山社中資料展示場」は平成元年に地元住民や市内有志で結成された「亀山社中ば活かす会」の方が古写真や資料の展示・説明をされています。入館は無料で「龍馬伝」にあわせ平成22年1月からは無休となっているようです。(以前は、たしか土、日、祝日だけの開館だったようです)

 多くの色紙がありました。「龍馬伝」関係の方、ソフトバンクの孫正義さん、さだまさしさん、長崎の豪商・小曽根乾堂の子孫で17代当主小曽根吉郎さん等々。
 
「亀山社中資料展示場」へ行きました


「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました


「亀山社中資料展示場」へ行きました

 


 面白いものが掲示してありました。
 亀山社中・海援隊・新海援隊・振援隊(元海援隊)士名簿です。45名の名前があり、それぞれがどの組織に所属したかが分ります。
龍馬死後の海援隊は長崎奉行所西役所を占拠した者達と長岡謙吉等の京都や大阪に残留した者達に分かれていた。
新海援隊は長岡謙吉等が塩飽諸島で活動、長崎に残った者は長崎奉行が町の治安を守るために組織していた「遊撃隊」から改められた「振援隊」に参加した。そして奥州地方へ出征(戊辰戦争)、各地を転戦した。

「亀山社中資料展示場」へ行きました






 昨年夏の亀山社中記念館前は、入館待ちの方の暑さ除けのために工事用パイプで仮設のよしずが架かっていました。この賑わいを一過性のものとせず、地道に長崎の魅力を伝えていきましょう!

「亀山社中資料展示場」へ行きました「亀山社中資料展示場」へ行きました












ガンバレ日本! ガンバレ東北! 
そしてガンバロウ 長崎!



Posted by 在京長崎応援団塾 at 13:29│Comments(1)
この記事へのコメント
坂本さん
先日のハタ揚げお疲れさまでした。お元気そうで何よりでした。
熱い投稿ありがとうございます!これからも是非よろしくお願いいたします。
Posted by ヤチゴ at 2011年05月14日 10:30
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。