2010年03月07日
咸臨丸について
2月21日(日)に住友重機械工業(株)旧浦賀工場内(仮称:ミュージアム・パーク推進センター)での「咸臨丸の生涯:万延元年遣米使節150周年記念」パネル展示及び「咸臨丸子孫の会:小杉伸一氏」講演会に行きました。 安政4年(1857)にオランダで建造され明治4年(1871)北海道更木岬(木古内町)沖の暗礁に乗り上げ座礁・沈没するまでを太平洋横断前・太平洋横断・その後の三つの時期に分け写真や解説パネルが展示されていました。
小杉伸一氏は咸臨丸が太平洋横断した時の乗組員の小杉雅之進(長崎海軍伝習所の3期生)の曾孫で「咸臨丸子孫の会」の事務局長をされている方です。
・浦賀は1853年ペリーの黒船(サスケハナ号)が来航したことで有名ですが、1600年には三浦按人(日本に来た初めてのイギリス人、ウィリアム・アダムス)が乗ってきたリーフデ号が浦賀で解体されているなど、古くから造船技術があった。
・1854年には、日本最初の洋式軍艦「鳳凰丸」を浦賀大ケ谷で完成させている。
・安政2年(1855)オランダ国王から将軍家定に贈呈されたスームビング号(観光丸と命名:観光の江戸時代の意味は視察が近い意味らしい)で伝習が開始され、長崎海軍伝習所が正式に開設された。
第一期伝習生は勝海舟等86名、約16ケ月間の伝習後、観光丸で江戸に引き上げた。観光丸は1857年築地に設置された軍艦操練所の練習艦になり、長崎海軍伝習所の第一期生が教授方等に任命された。
・咸臨丸(ヤパンJAPAN)は幕府の発注により、1856年オランダ・キンデルダイクのフォップ・スミット造船所で建造された。1857年フェイノールトのオランダ蒸気船会社でエンジンなどを搭載して完成。
日本から海外へ発注された最初の船。
・咸臨丸は長さ48.8m、幅8.74m、高さ5.6m、620トン、100馬力。ジャンボジェット機の約半分の長さだそうです。
・1857年11月からは、ヤパン号(咸臨丸と命名)で来航したオランダのカッテンディーケ大尉以下の第二次教師団が長崎海軍伝習所の伝習にあたり咸臨丸が実習に使われた。長崎海軍伝習所は第二期生96名、第三期生34名まで続いた。
・長崎海軍伝習所は安政6年(1859)に閉鎖され、江戸の軍艦操練所に引き継がれた。これに伴い咸臨丸も江戸へ移された。
・安政5年6月19日(1858)ポーハタン号艦上にて「日米修好条約」締結。幕府は条約の批准書の交換をワシントンで行うことを提案、ハリスはこれを歓迎し条約文に明記された。
・使節の渡米にはアメリカが迎船を用意することになりましたが、迎船とは別に幕府の軍艦を派遣することになった。これは長崎海軍伝習所や江戸の軍艦操練所の経験をもとに遠洋航海の実地訓練を実施したいという関係者の宿望であった。
・咸臨丸は「日本人単独で初めてアメリカへ渡った船」と取り上げられる事が多いが、実は遣米使節の代表、新見豊前守正興、目付・小栗上野介忠順等77名はポーハタン号(2415トン)に乗船。別船として随行したのが咸臨丸(620トン)でした。
・咸臨丸の艦長は勝麟太郎(勝海舟)、通訳として中浜(ジョン)万次郎、福沢諭吉も奉行従者として乗船した。
・咸臨丸の乗組員は日本人94名、ジョン・M・ブルック海軍大尉らアメリカ人11名。航海は苦難の連続でサンフランシスコ到着までの38日間で晴天は7日だけだったそうです。初めて外洋に出た日本人乗組員が太平洋を横断できたのは、ブルック大尉以下のアメリカ人乗組員の技量と規律など協力なサポートがあったから成し遂げられたというのが実態のようです。
・派遣する軍艦は朝陽丸から観光丸そして直前に咸臨丸に決まった。
・咸臨丸は品川から横浜を経由し安政7年1月19日(1860)浦賀を出帆し2月26日サンフランシスコに入港した。
・ポーハタン号は、咸臨丸より大きく速度も速かったため、咸臨丸が出帆した3日後に横浜を出帆した。マスト修理のためハワイ経由したため、咸臨丸が先にサンフランシスコに到着、ポーハタン号のサンフランシスコ入港は3月9日だった。
・サンフランシスコからの帰路は、3月19日サンフランシスコ出帆、ハワイを経由して5月5日に浦賀へ帰港した。帰路は日本人だけの航海だった。。
・咸臨丸の太平洋横断のコースは、現在の一般的な航路とほぼ同じだそうです。
・水夫や火焚きとして瀬戸内海の塩飽出身者や長崎出身者が多くいます。長崎出身者は約30名で戸町、小瀬戸、西泊、野茂、飽の浦等の出身地となっています。「咸臨丸子孫の会」に入会されている血族の方は161名だそうですが(他に血族ではない学芸員の方など55名)、長崎出身者の血族の方は現在までゼロだそうです。(ちょっと残念)
・太平洋横断後、咸臨丸は神奈川港警備につき江戸と横浜間を頻繁に往復、対馬や小笠原諸島などへの航海をしたが、明治4年月920日(1871年)函館を出帆し更木岬(木古内町)の暗礁に乗り上げ座礁。乗客乗員は全員救助されましたが、咸臨丸は沈没し14年の生涯を終えた。
・サラキ岬には咸臨丸の5分の1のモニュメントが設置され、船が造られたオランダの国花チューリップ花壇が整備されているようです。
京浜急行浦賀駅の近くに浦賀の歴史を表わした12枚の絵がかけられていました。2000年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として小学校や中学校などで作成されたものだそうです。
京浜急行横須賀中央駅東口から徒歩6分「やきとり 竜馬におまかせ」が2月26日の日本テレビ「おもいっきり DON:勝海舟・坂本龍馬ゆかりの地を巡る」のなかで紹介されました。
2月26日は、咸臨丸がサンフランシスコに入港したのを記念して「咸臨丸の日」とされています。
小杉伸一氏は咸臨丸が太平洋横断した時の乗組員の小杉雅之進(長崎海軍伝習所の3期生)の曾孫で「咸臨丸子孫の会」の事務局長をされている方です。
・浦賀は1853年ペリーの黒船(サスケハナ号)が来航したことで有名ですが、1600年には三浦按人(日本に来た初めてのイギリス人、ウィリアム・アダムス)が乗ってきたリーフデ号が浦賀で解体されているなど、古くから造船技術があった。
・1854年には、日本最初の洋式軍艦「鳳凰丸」を浦賀大ケ谷で完成させている。
・安政2年(1855)オランダ国王から将軍家定に贈呈されたスームビング号(観光丸と命名:観光の江戸時代の意味は視察が近い意味らしい)で伝習が開始され、長崎海軍伝習所が正式に開設された。
第一期伝習生は勝海舟等86名、約16ケ月間の伝習後、観光丸で江戸に引き上げた。観光丸は1857年築地に設置された軍艦操練所の練習艦になり、長崎海軍伝習所の第一期生が教授方等に任命された。
・咸臨丸(ヤパンJAPAN)は幕府の発注により、1856年オランダ・キンデルダイクのフォップ・スミット造船所で建造された。1857年フェイノールトのオランダ蒸気船会社でエンジンなどを搭載して完成。
日本から海外へ発注された最初の船。
・咸臨丸は長さ48.8m、幅8.74m、高さ5.6m、620トン、100馬力。ジャンボジェット機の約半分の長さだそうです。
・1857年11月からは、ヤパン号(咸臨丸と命名)で来航したオランダのカッテンディーケ大尉以下の第二次教師団が長崎海軍伝習所の伝習にあたり咸臨丸が実習に使われた。長崎海軍伝習所は第二期生96名、第三期生34名まで続いた。
・長崎海軍伝習所は安政6年(1859)に閉鎖され、江戸の軍艦操練所に引き継がれた。これに伴い咸臨丸も江戸へ移された。
・安政5年6月19日(1858)ポーハタン号艦上にて「日米修好条約」締結。幕府は条約の批准書の交換をワシントンで行うことを提案、ハリスはこれを歓迎し条約文に明記された。
・使節の渡米にはアメリカが迎船を用意することになりましたが、迎船とは別に幕府の軍艦を派遣することになった。これは長崎海軍伝習所や江戸の軍艦操練所の経験をもとに遠洋航海の実地訓練を実施したいという関係者の宿望であった。
・咸臨丸は「日本人単独で初めてアメリカへ渡った船」と取り上げられる事が多いが、実は遣米使節の代表、新見豊前守正興、目付・小栗上野介忠順等77名はポーハタン号(2415トン)に乗船。別船として随行したのが咸臨丸(620トン)でした。
・咸臨丸の艦長は勝麟太郎(勝海舟)、通訳として中浜(ジョン)万次郎、福沢諭吉も奉行従者として乗船した。
・咸臨丸の乗組員は日本人94名、ジョン・M・ブルック海軍大尉らアメリカ人11名。航海は苦難の連続でサンフランシスコ到着までの38日間で晴天は7日だけだったそうです。初めて外洋に出た日本人乗組員が太平洋を横断できたのは、ブルック大尉以下のアメリカ人乗組員の技量と規律など協力なサポートがあったから成し遂げられたというのが実態のようです。
・派遣する軍艦は朝陽丸から観光丸そして直前に咸臨丸に決まった。
・咸臨丸は品川から横浜を経由し安政7年1月19日(1860)浦賀を出帆し2月26日サンフランシスコに入港した。
・ポーハタン号は、咸臨丸より大きく速度も速かったため、咸臨丸が出帆した3日後に横浜を出帆した。マスト修理のためハワイ経由したため、咸臨丸が先にサンフランシスコに到着、ポーハタン号のサンフランシスコ入港は3月9日だった。
・サンフランシスコからの帰路は、3月19日サンフランシスコ出帆、ハワイを経由して5月5日に浦賀へ帰港した。帰路は日本人だけの航海だった。。
・咸臨丸の太平洋横断のコースは、現在の一般的な航路とほぼ同じだそうです。
・水夫や火焚きとして瀬戸内海の塩飽出身者や長崎出身者が多くいます。長崎出身者は約30名で戸町、小瀬戸、西泊、野茂、飽の浦等の出身地となっています。「咸臨丸子孫の会」に入会されている血族の方は161名だそうですが(他に血族ではない学芸員の方など55名)、長崎出身者の血族の方は現在までゼロだそうです。(ちょっと残念)
・太平洋横断後、咸臨丸は神奈川港警備につき江戸と横浜間を頻繁に往復、対馬や小笠原諸島などへの航海をしたが、明治4年月920日(1871年)函館を出帆し更木岬(木古内町)の暗礁に乗り上げ座礁。乗客乗員は全員救助されましたが、咸臨丸は沈没し14年の生涯を終えた。
・サラキ岬には咸臨丸の5分の1のモニュメントが設置され、船が造られたオランダの国花チューリップ花壇が整備されているようです。
京浜急行浦賀駅の近くに浦賀の歴史を表わした12枚の絵がかけられていました。2000年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として小学校や中学校などで作成されたものだそうです。
京浜急行横須賀中央駅東口から徒歩6分「やきとり 竜馬におまかせ」が2月26日の日本テレビ「おもいっきり DON:勝海舟・坂本龍馬ゆかりの地を巡る」のなかで紹介されました。
2月26日は、咸臨丸がサンフランシスコに入港したのを記念して「咸臨丸の日」とされています。
Posted by 在京長崎応援団塾 at 10:07│Comments(4)
この記事へのコメント
ブログ掲載ありがとうございます。その後、富士宮市、長崎市でも講演させていただきました。
これからは、10月24日に慶應義塾日吉キャンパス、11月20日に坂出市、11月21日に多度津町、11月23日に丸亀市での予定があります。また、11月3日に東海大学湘南キャンパスで「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」と題したトークショーを企画しています。ご期待下さい。
これからは、10月24日に慶應義塾日吉キャンパス、11月20日に坂出市、11月21日に多度津町、11月23日に丸亀市での予定があります。また、11月3日に東海大学湘南キャンパスで「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」と題したトークショーを企画しています。ご期待下さい。
Posted by 小杉 伸一 at 2010年09月27日 22:44
小杉様から情報を戴きました明日(11月3日)の東海大学湘南キャンパスでのトークショー行くことにしました。
東海大学の卒業生の機友会の行事だそうですが、電話で確認したら一般の者の聴講もいいとのことなので・・・・・楽しみです !
東海大学の卒業生の機友会の行事だそうですが、電話で確認したら一般の者の聴講もいいとのことなので・・・・・楽しみです !
Posted by 在京長崎応援団塾 at 2010年11月02日 11:07
勝海舟と福沢諭吉は仲が悪かったので有名。咸臨丸に共に乗って太平洋を渡った二人だけれど、明治以降の生き方のことで、やりあった二人でした。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2011年01月13日 03:44
「咸臨丸・太平洋を征く」の小説完成。バンザイです。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2011年01月18日 01:46
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