2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」でした。主演は長崎出身の福山雅治。「龍馬伝」を楽しめる情報を発信するブログです!

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Posted by のらんば長崎運営事務局 at

2011年10月02日

小曽根家17代当主、吉郎・育代氏御夫妻の講演(横須賀市大津)

 横須賀市大津観光協会の「おりょうさんまつり」が10月6日(木)~10日(月)に開催されます。9日(日)13:30~15:30には、長崎・小曽根家17代当主、吉郎・育代氏御夫妻の講演があります。
テーマは「おりょうさんが輝いたとき~長崎日和」です!


 http://www.cocoyoko.net/oryou_matsuri/index.html

 龍馬の長崎時代、長崎の豪商小曽根家は亀山社中・海援隊を物心両面で援助した。龍馬の妻お龍は、長崎で小曽根家の長男乾堂(けんどう)の妻お常や娘お菊に月琴を習ったとされています。
 自分は、2年前に育代夫人の著書「お龍さんの長崎日和」を読んだことがキッカケで小曽根氏宅で2度話を伺いました。
 昨年8月以来の再会を楽しみにしております!


 小曽根 育代氏の著書「お龍さんの長崎日和」長崎新聞社発行



































 2010年8月18日 小曽根氏宅にて、小曽根氏夫妻(左側)と私  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 15:01Comments(4)

2011年05月17日

「勝海舟生誕之地」へ行きました

 JR両国駅から徒歩10分、両国公園内に龍馬の師である「勝海舟生誕之地」の碑があります。






 法務大臣 西郷吉之助書と彫られています。西郷隆盛は勝海舟より早く亡くなったはずなのに何故?
西郷隆盛の孫の名前も西郷吉之助(1906年~1997年)、石碑は孫の書でした。佐藤内閣の時に法務大臣を務めたようです。


 両国公園(勝海舟生誕地)から徒歩5分の場所に回向院があります。回向院境内は天保4年(1833)から76年間、相撲興行本場所の地であったそうです。海舟が長崎の福済寺に滞在した時に、同行していた龍馬と相撲を取った。龍馬173cm、海舟150cmで、海舟は持ち上げられ足をバタバタさせていたという逸話があります。海舟も回向院での相撲を観たのでしょうね。下右の写真は境内にある「力塚」



















 回向院には「鼠小僧次良吉(俗名 中村次良吉)」の墓もあります。
鼠小僧って実在の盗賊だったんですね。戒名は教覚速善居士、いい戒名だなあ・・・・?
鼠小僧の墓石を欠いて財布や袂に入れておけば”金回りがよくなる、持病が治る”といわれているそうで、本来の墓の前に「欠き石」(白い色の石)という供養碑が置かれています。
成就した人の奉納した「欠き石」は、数年毎に建て替えられ続け現在までに数百にもなっていると記述されてました。
 勿論コツコツと叩いて、削った粉末を持ち帰り、財布にいれましたよ!






 実は当日5月14日(土)は、15時から東京・四ツ谷で会合の予定でした。
両国国技館では、技量審査場所が開催されており当日券(無料)がAM8:00から1000枚配布されるとのこと。長崎工業高校の同窓生で序二段西2枚目佐田ノ濱(境川部屋)は、前日まで3戦全勝で14日も取組予定あり。
 AM5:40に相模原の自宅を出てJR両国駅に着いたのがAM7:30。国技館の敷地内には、かなりの列。
並んだ場所は、国技館の入口前からJR両国に向かう道路。相撲協会の係の方が「これから並んでも入場券は手に入らないかもしれません」。駄目かなと思いながらも並んだ。自分の後ろにも続々と増え、係の方のアナウンスが「これから並んでも入場券は手に入りません」に変わったが、AM8:00には自分より後ろに500人以上はいた。
 AM8:30、いよいよ自分達の列も動き始めた。「もらえるか?」微妙、AM8:40あと50名位のところで「本日の配布は全て終了しました。残念・・・・ということで「勝海舟生誕之地」他、両国周辺を散策しました。

 力士の幟はなく、さびしい。バックにスカイツリー






 佐田ノ濱は14日(土)は負けました。次は17日(火)の取組です。
佐田ノ濱は長崎市飯香浦町出身、昨年4月29日六郷土手での恒例「長崎凧(ハタ)揚げ」に参加してくれました。境川親方は元小結 両国、長崎市茂木町出身です。
みなさん応援宜しくお願いします。








 旧安田庭園から観たスカイツリーです。関東大震災及び戦没者を慰霊した東京都慰霊堂がある横網町公園も近くにあります。



  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 00:38Comments(4)

2011年05月13日

「亀山社中資料展示場」へ行きました

 久しぶりのブログです。
ちょっと前(いや3月末のことですからずいぶん前)、半年振りに長崎に行ってきました。
 「浜の町」から「風頭山」行きのバスに乗り終点で下車、風頭公園・龍馬像を経由して「亀山社中資料展示場」へ行きました。

 風頭公園・龍馬像の前からの眺めが好きで何度も来ています。大浦天主堂や南山手の洋館の先に見える「女神大橋」、三菱重工の造船所のドックと港内を行きかう船の白い波、テレビ塔のある稲佐山(2009年8月福山雅治さんの”音返し”コンサートもやったところ。さだまさしさんが20年間無料コンサートをやったところ)天気もよく、ゆったりとした時の流れでした。

 昨年は「龍馬伝」効果で賑わっておりましたが、土曜日の1時間程に団体客は1組だけでグループの観光客も多くありませんでした。

ゴールデンウィーク中の観光客も長崎歴史文化博物館は前年比約7割減、長崎まちなか龍馬館が約6割減と龍馬に関連した施設は大幅に減ったようですね。予想されていたこととはいえ残念。































 長崎に来る2週間前の3月11日14時46分、東日本大震災発生。
地震発生時は、神奈川の自宅で国会のテレビ中継を観ていました。「緊急地震警報」がテレビ画面に表示後、天井から吊り下げている照明が激しく揺れ、船に乗って大きな波にあったような・・・・神奈川に住んで40数年、揺れが大きく・時間も長く、これまで体験したことのない地震でした。
 揺れのあとリアルタイムで津波の様子がテレビ中継され、地震・津波・原発事故と刻々と未曾有の災害であることが伝えられました。
2ケ月経っても復興の目途さえ見えてこない状況に被災者の方の心境を察すると、やるせなさ・いらだち・怒りの気持ちが湧いてきます。
 昨日、東京電力の発表で福島原発1号機でメルトダウン(炉心溶融)が起きているという。
えーっ今さら、そんなことを!。
 現場で作業に携わっている方の懸命な働きには、敬意を表するし継続して頑張りを支援しなければならない事態だと思います。しかし事故収束を目指す対策・対応の根幹部分に甘さがあるのでは・・・・・

 下の写真は龍馬像からJR長崎駅、その奥の浦上方面を観たものです。昭和20年(1946年)8月9日原子爆弾が落とされた時、左下に見える丸いガスタンクの場所から浦上の方は壊滅的な惨状だったそうです。
 4年前に90歳で亡くなった母は、爆心地から1.2Kmの茂里町にあった兵器工場で働いていました。爆風に倒されたものの通常徒歩で1時間弱で帰れる自宅(海星高校、東山手の近く)へ一晩かけて帰ってきたそうです。
亡くなる10年程前から何度も聞いた話ですが「歩いて帰ってきて大仁田さんの防空壕の前で、もらったおにぎりが本当においしかった」そうです。
*大仁田さんは、当時長崎で風呂敷などを扱っていた名店でプロレスラーで元参議院議員の大仁田厚さんの親族の方だ?ということでした。
 母は被爆者健康手帳を所持しており毎年受診していました。幸い原爆症の顕著な症状は出ませんでした。私自身は被爆二世ですが、兄弟も含め原爆の影響はありません。
 福島原発を早く収束して欲しい。とにかく新たな放射能の外部への流出を食い止めて下さい! 
 





















 前置きが長くなりましたが「亀山社中資料展示場」です。
「亀山社中資料展示場」は平成元年に地元住民や市内有志で結成された「亀山社中ば活かす会」の方が古写真や資料の展示・説明をされています。入館は無料で「龍馬伝」にあわせ平成22年1月からは無休となっているようです。(以前は、たしか土、日、祝日だけの開館だったようです)

 多くの色紙がありました。「龍馬伝」関係の方、ソフトバンクの孫正義さん、さだまさしさん、長崎の豪商・小曽根乾堂の子孫で17代当主小曽根吉郎さん等々。
 








 


 面白いものが掲示してありました。
 亀山社中・海援隊・新海援隊・振援隊(元海援隊)士名簿です。45名の名前があり、それぞれがどの組織に所属したかが分ります。
龍馬死後の海援隊は長崎奉行所西役所を占拠した者達と長岡謙吉等の京都や大阪に残留した者達に分かれていた。
新海援隊は長岡謙吉等が塩飽諸島で活動、長崎に残った者は長崎奉行が町の治安を守るために組織していた「遊撃隊」から改められた「振援隊」に参加した。そして奥州地方へ出征(戊辰戦争)、各地を転戦した。








 昨年夏の亀山社中記念館前は、入館待ちの方の暑さ除けのために工事用パイプで仮設のよしずが架かっていました。この賑わいを一過性のものとせず、地道に長崎の魅力を伝えていきましょう!














ガンバレ日本! ガンバレ東北! 
そしてガンバロウ 長崎!
  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 13:29Comments(1)

2010年11月21日

「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」高山みな子氏(勝海舟玄孫)講演

 龍馬伝もいよいよ大詰め、21日放送は「大政奉還」。予告編では勝海舟(武田鉄也さん)も登場するようですね。おひさしぶり!
 11月3日東海大学湘南校舎であった高山(こうやま)みな子氏(勝海舟の玄孫)の「坂本龍馬と勝海舟の熱い絆」講演会に行ってきました。当日は東海大学の建学祭が開催されており、高山氏の講演は機械工学科のOB会(機友会)が企画したものです。聴講者は約30名、予想したよりはるかに少ない。あまり広報されていなかったためか?(キャンパスのなかで大学関係者に聞いても、あまり把握されておらず会場を探すのに手間取りました)



 講演は約90分間。内容は多岐に亘り古地図や参考文献、勝家に伝わるエピソード等、たいへん興味深いものでした。下記チラシの「ひ孫」は「玄孫」が正しい。



・海舟は家庭では、厳しかった。
・海舟も龍馬も下町生まれ。干支は「ひつじ」、二人の師である佐久間象山も「ひつじ」、海舟の妹が象山の妻になっている。
・海舟日記(原本は江戸東京博物館にあるそうです)には、龍馬に関する記述は20ケ所。龍馬の事を「坂本龍馬子」と書いているが、子とは親しい者につけるそうで、海舟が龍馬の事を認めていたことが分かる。
・薩長同盟、大政奉還など龍馬の行動について海舟は情報を得ていたし理解もしていたのだろう。
・海舟に同行して長崎に行き福済寺に滞在した時、海舟と龍馬が相撲を取った。龍馬173cm、海舟150cmで、海舟は持ち上げられ足をバタバタさせた。
海舟の「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張。我に与からず我に関せずと存候」と龍馬の「世の人は我を何とも言わば言え 我が成すことは我のみぞ知る」には相通じる考え方があるようだ。
・土産話として紹介がありました。岩崎弥太郎の日記に「龍馬から短刀を所望されたが、代わりの物をあげ、所望されたものはあげなかった」旨の記述があるそうです。その龍馬が欲しがったという短刀が鎌倉の正宗工芸美術製作所さんにあるそうです。

 講演後、直接高山氏と話すこともできました。たいへん楽しい時間でしたありがとうございます。

 11月5日テレビ東京放送の「幕末の日本人がスゴイらしい」で歴史家など40名に聞いた「幕末のスゴイ人物」アンケートで1位勝海舟、2位坂本龍馬でした。
 高山みな子氏も出られていて「勝海舟と言いたいところなんですが・・・大浦慶」と答えられました。

 今日の「龍馬伝」で龍馬と海舟の再会は、どのように描かれるのか・・・楽しみです!

  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 09:08Comments(0)

2010年10月19日

三菱重工業 長崎造船所 「史料館」(岩崎家コーナー)

 長崎市飽の浦町の三菱重工長崎造船所史料館には、2010年4月1日から三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎から四代社長までの「岩崎家コーナー」が新設され約40点が展示されています。
 中段右側の写真が「岩崎家コーナー」です。
弥太郎が履いていた高下駄が印象に残りました。下駄を入れる箱には「大旦那様 御下駄箱」と書かれていました。(弥太郎は自分のことを「だんな」と呼ばせていたそうですね)
 *三菱初代社長は弥太郎、2代目弥之助(弥太郎の弟)、3代目久弥(弥太郎の長男)、4代目小弥太(弥之助の長男)

 赤煉造りの史料館は、明治31年(1898)に造船所の「木型場」として建設されたもので三菱長崎造船所に現存する最も古い建物だそうです。
 館内は13のコーナーに別れ、安政4年(1857)官営長崎鎔鉄所から現在に至るまでの写真や日本最古の工作機械、国産最初の陸用蒸気タービンなども展示されています。小菅の修船場のソロバンドッグの模型もありました。
 昭和20年8月の空襲や原爆の爆風にも耐えた建物が、史料館として活用されていることを嬉しく思いました。






























 入場は無料で日曜、祝日も開館していますが、工場の敷地内にありますので事前に予約することになっています。  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 11:30Comments(0)