2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」でした。主演は長崎出身の福山雅治。「龍馬伝」を楽しめる情報を発信するブログです!

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Posted by のらんば長崎運営事務局 at

2010年09月23日

おりょうさんまつり(横須賀・大津観光協会)

 久しぶりに横須賀の”やきとり竜馬におまかせ”に行きました。
 
 





















京浜急行「横須賀中央駅」東口を出て社会保険事務所を目印に行くといいと思います。








店主の齋藤秀一さんからおりょうさんまつりの情報を得ました。
おりょうさんまつり: http://www.cocoyoko.net/oryou_matsuri/index.html


 お龍の墓がある信楽寺(しんぎょうじ、京浜急行 京急大津駅徒歩5分)で毎年営まれている第22回 坂本龍馬の妻龍子墓前祭は10月9日に実施されます。
 今年は「龍馬伝」の放送もあり、10月1日から10日まで大津コミュニティセンター(京急大津駅徒歩1分)ではパネル展や特別講演等も実施されます。


 10月2日(土)の特別講演は、「史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍」の著者鈴木かほる氏の「龍馬が愛した女性たち 佐那・加尾そしてお龍」 興味あります!  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 14:36Comments(0)

2010年09月10日

平井加尾と後藤象二郎の墓に行きました(東京・青山霊園)

 龍馬伝は、次回9月12日放送「龍馬の妻」で龍馬(福山雅治さん)とお龍(真木よう子さん)は結婚します。
 薩長同盟という大きな仕事を成し遂げたのもつかのま、寺田屋で襲われお龍の機転により九死に一生を得た龍馬。一段と危険がせまるなかでのカップル誕生です。
 
 初回1月3日の放送から登場した幼馴染で初恋の女性と言われる平井加尾(広末涼子さん)。

 「坂本龍馬等寄せ書き胴掛け」(袱紗)の実物を4月28日に江戸東京博物館の特別展で観た。
龍馬と加尾の想いが書かれたものであるが、高知そして京都で龍馬との愛を互いに自覚しながらも、尊皇攘夷の政局のなかで引き裂かれてしまった。

 加尾は龍馬とお龍が結婚した1866年に元土佐勤皇党員西山志澄と結婚。西山志澄は後に国会議員や警視総監にもなり、加尾は明治42年73歳で亡くなるまで(お龍や千葉佐那に比べれば)平穏で幸せに暮らしたようです。

 平井加尾の墓(1種ロ14号9側)
 「西山家」「平井家」と彫られています。昭和43年に新しく建立されたようです。
 なぜか「西山家」と「平井家」の書体が違っています。
 墓誌の最初に西山加尾(明治42年没)、次に西山志澄(明治44年没)と刻まれています。
 なぜか加尾の享年は刻まれてありません。











































 龍馬伝10月3日放送予定は「清風亭の対決」が予定されています。
慶応3年(1867)1月13日、仇敵であった龍馬と後藤象二郎(青木崇高さん)が長崎・清風亭で会談し和解。亀山社中は土佐藩傘下の海援隊となる。
 清風亭会談は日本回天の重要な舞台となった場所と言われる。


後藤象二郎の墓(1種イ13号24側)



 中央が象二郎の墓、右が妻磯子の墓、左が後妻雪子の墓。
この墓の前には象二郎の三男及び四女の墓や後藤家関係の墓が並んでいる。






















 青山霊園は広大な霊園ですが、加尾の墓と象二郎の墓は墓地中央道路を挟んで近い場所にあります。
 加尾の墓は”西七通り”、象二郎の墓は”東十通り”にあります。
 
  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 23:44Comments(1)

2010年08月31日

長崎に着きました。NO.4 長崎の街と龍馬伝他、いろいろ

 約1ケ月の長崎滞在、やることが多かったのと猛暑・猛暑で・・・行きたいと思ったところもいくつか断念。

まちなか龍馬館の龍馬像
ワイル・ウェフ号が遭難した上五島に建立された「五島祈りの龍馬像」のレプリカ。風頭公園龍馬像と同じ山崎和國氏の制作、逞しい腕と整った顔です!

























武田鉄也さんの「海援隊」メンバーの寄せ書きもありました!





















 7月28日、長崎市歴史民俗資料館(長崎市平野町)の特別企画展「長崎の海と船展」に行きました。前日、展示されている資料のなかに、海援隊が伊予大洲藩から借り受け瀬戸内海を航行中に紀州藩の「明光丸」と衝突し沈没した”「いろは丸」とみられる絵画資料が見つかった”ということで報道陣が来場者へインタビューをしていました。

 したたかなイギリス人貿易商トーマス・グラバーの息子倉場富三郎は偉大な父とは違い地道な生き方だったそうです。富三郎は魚の研究をしており、富三郎が編纂した「グラバー図譜」(魚を詳細に描いた絵、全体では約800枚)の一部も展示されていました。

 昨年3月末、長女の夫が長崎へ転勤。関東から引越しの手伝いに行った妻と娘が、歴史民俗資料館に行き、たまたま永松館長と会話。ちょっとした会話がキッカケで昨年5月に長崎市制120周年の企画展で、自分が高校3年の時東京オリンピックの聖火リレー(長崎市)で使用した”ランニングシャツ”が展示されました。
 それが縁で歴史民俗資料館は何回か訪ねております。常設展のほか、いろんな企画展が実施されています。
 8月21日には、咸臨丸の乗組員の御子孫である小杉伸一氏の「子孫から見た咸臨丸の歴史」の講演も開催されています













 「ながさきみなとまつり」で7月31日(土)と8月1日(日)の連日、各5000発の花火が打ち上げられました。開始時刻は20時50分からです!関東とは1時間の差があります。あらためて陽の長さの違いを感じました。
 長崎は、盆地で周囲の山に音が反響して「ドドンッ、ドンドーン」と音の余韻が楽しめます。
1日目は高台にある我家の墓で、2日目はオランダ坂の洋館越しに見ました!





 8月15日は精霊流し、さだまさしさんの父佐田雅人さんの大きな船もありました。
さだまさしさんは、紋付・袴で船の前を歩いておられました。













 龍馬伝には、多くの方がエキストラとして協力されていますが、陸上自衛隊大村駐屯地の25人が中国人貿易商、職人、通訳などで出演。皆さん髪を剃っての参加だったそうです。 




  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 12:13Comments(0)

2010年08月29日

長崎に着きました。NO.3 大浦お慶の墓

 大浦お慶(余貴美子さん)は、長崎の油商に生まれ10代で大浦家を継ぐ。英国貿易商オールトと組んで日本茶の製茶貿易で莫大な富を得た。亀山社中・海援隊のスポンサーでもあったとされている。
 後に「遠山事件」と呼ばれる詐欺事件にあい没落したが、借金は死ぬまでに完済していたとされる。
 小曽根乾堂(本田博太郎さん)と同じ文政11年(1828)生まれ。
 龍馬伝では、乾堂他長崎の豪商達とのマージャンでも女傑ぶりを発揮。乾堂とのやりとりのシーンで龍馬(福山雅治さん)への支援(投資)を「つばをつけたとは、うちが先ばい・・・・」は面白い
 大浦お慶の邸宅跡は、浜町アーケードを抜け、トルコライスで有名な「ツル茶ん」の近くで簡単に見つけられるが、墓を探すのにはちょっと迷った。

 路面電車終点「正覚寺下」から歩いてみたが、それらしき標識が見当たらず猛暑のなか「まちなか龍馬館」へ行き担当の方に聞く。ややあいまいだが清水寺にあるのではとの返事。清水寺へ向かう。

清水寺の入り口にある説明。
お慶は清水寺に熱心に参拝したとのことです。






















お慶の墓は、説明板の右方向に歩くと標識がありました!

















お慶の墓は、大浦家の墓地にあります。
左から4番目が、お慶の墓です。


   

Posted by 在京長崎応援団塾 at 09:47Comments(0)

2010年08月28日

長崎に着きました。NO.2 小曽根乾堂の御子孫夫妻に再会!

 龍馬伝は7月18日の第29回「新天地、長崎」から長崎時代が始まりました。
幕末の10余年”日本で一番輝いていた長崎”は、和・華・蘭の文化、グラバーやオルト等貿易商の活動、各藩の蔵屋敷や出先機関が置かれ知識・情報・物資が集まる窓口であった。
 「新天地、長崎」は蛇踊りや爆竹、花街丸山、グラバー邸、崇福寺等、まさに長崎時代の幕開けでした!

 長崎時代の大きな興味のひとつは、小曽根乾堂(けんどう、本田博太郎さん)が、どのように描かれるのかでしたが、早速登場し毎回威厳があり存在感のある期待どおりの演出です。
 
 自分は、昨年11月に小曽根家17代当主吉郎(きちろう)氏夫人育代さんの著書「お龍さんの長崎日和」を読んだことが縁で昨年末小曽根夫妻に会い、それ以来連絡をとらせていただいております。
(いきさつは弊ブログ2009/12/2,2010/1/9,2010/7/18参照)

 8月18日に小曽根町の吉郎様宅を再訪し、楽しい時間を過ごさせてもらいました。

 この花瓶見覚えがありませんか?
 7月25日の第30回「龍馬の秘策」の小曽根邸で龍馬(福山雅治さん)が西郷隆盛(高橋克実さん)に、薩摩藩と長州藩が手を組むことを説いている場面で乾堂が芍薬をいけていた花瓶です。
 小曽根家所蔵の約800年位前の青磁の花瓶だそうです。




































 龍馬の長崎時代、小曽根家には4人の兄弟がいたが、四男英四郎は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」にも登場するが、長男乾堂に関する記述はない。
龍馬伝のNHKホームページ人物相関図の主な登場人物も4月末までは四男英四郎となっていた。(5月になってから長男乾堂に替わった)
 龍馬伝では長男乾堂の意を受けて動く四男英四郎との力関係が、よく描かれていると思う。
 かなり「お龍さんの長崎日和」を参考にされたのでは?と自分は感じているが・・・・・

 
 この件に関してご夫妻にお伺いしてみたが、長男乾堂が登場するようになったいきさつも含め全く分かりませんということですが、乾堂が描かれることについては大変喜んでおられました。
 小曽根邸の跡といえば、本博多町(現町名は万才町、現長崎地方法務局があるところ)は、よく知られており長男乾堂ももとは本博多町に住んでいた。浪の平一帯の埋立事業をして港湾を整備、万延元年(1860)に小曽根町に居を移したため、小曽根邸は英四郎の住む本博多町とグラバー邸や外人居留地に近い乾堂の住む小曽根邸があった。
 小曽根町の乾堂邸跡にも、今年になってやっと案内坂が設置されたそうです。



 小曽根町一帯の乾堂が建てた太平寺や乾堂像等を巡り、
小曽根家で育代夫人が説明される「お龍さんと小曽根家の人たち」という長崎学さるくも毎月第二月曜日に実施されています。

http://www.saruku.info/course/G167.html 

説明に使われている家系図をみせてもらいました。




































小曽根家から見た小曽根乾堂邸跡(現在駐車場になっている)と乾堂邸にあった古井戸と石垣。





 左から吉郎様、育代様、私
背景の掛け軸は、亀山社中設立の年に福済寺で行われた中秋の名月の書画会の際に書かれたもの。小曽根乾堂、日高鉄翁、木下逸雲、森春芳のほか4人の中国人の名がある。
吉郎様から、龍馬もその席にいたのかも?との話もありました。





































吉郎様のTシャツの背中には、掛け軸に乾堂が書いた「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”英語で See the whole world with your cool eye と書かれています。

”冷静に考え熱く行動する” 龍馬の生き方にも通ずるものがあるような気がします。

このTシャツは「まちなか龍馬館」の土産売場で龍馬のTシャツと並べて売られてました。


  

Posted by 在京長崎応援団塾 at 13:05Comments(0)