都立旧岩崎邸庭園(岩崎弥太郎・久弥の茅町本邸)に行きました
「都立旧岩崎邸庭園」(台東区池之端、千代田線「湯島」駅徒歩3分)に行きました。
来年の大河ドラマ「龍馬伝」は、三菱の創始者「岩崎弥太郎」(高知県安芸市出身)の視点から描かれるものです。弥太郎(三菱初代社長)と長男久弥(3代目社長)の岩崎家茅町本邸は、現在「都立旧岩崎邸庭園」として公開されています。
岩崎家茅町本邸は、弥太郎が明治11年(1878)に旧舞鶴藩主牧野家の屋敷(元越後高田藩主榊原家中屋敷)約8000坪を買取、更に周辺を買い増して約1万5000坪の敷地とし、明治15年(1882)広大な和風邸宅を新築して住んだ。明治18年(1885)弥太郎の没後、屋敷を引き継いだ長男久弥は明治29年(1896)にイギリス人ジョサイア・コンドルの設計による洋館と撞球室(ビリヤード場)、大工棟梁の大河喜十郎の手による和館を新築した。
*大河喜十郎は、念仏を唱えながら仕事をしていたので”念仏喜十”と呼ばれた。
洋館は木造2階建・地下室付で本格的な洋風邸宅。撞球室は当時の日本では珍しいスイスの山小屋風の木造建築。洋館と撞球室は地下道で繋がれているそうですが、公開されていません。
ジョサイア・コンドルの設計した洋風建築の主なものに鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂などがあります。
洋館と結合された和館は、完成時は建坪550坪で居室だけでも14部屋あったが、現存するのは3部屋のみです。広間には、明治時代を代表する日本画家の橋本雅邦の障壁画が残っています。
現存する洋館・撞球室・和館、全て久弥が建てたものです。残念ですが、弥太郎の建てたものは残っておりません。
岩崎弥太郎:天保6年(1835)から明治18年(1885)享年50歳
長崎新聞に弥太郎の軌跡掲載:
http://www.nagasaki-np.co.jp/press/ryoumaugoku/kikaku.shtml
岩崎久弥:慶応元年(1865)から昭和30年(1955)享年90歳。椅子に座っている男性。久弥はアメリカに留学しペンシルバニア大学を修了。
11月10日に亡くなられた俳優の森繁久弥さんの名前は、岩崎久弥と森繁さんの父親との付き合いがあったからとか、合掌。
三菱マークの由来岩崎家の家紋「三階菱」と土佐藩山内家の家紋「三ツ柏」を組合わせ、創業時の「九十九商会」が船旗号として採用した三角菱を経て現在のスリーダイヤ・マークになった。
旧岩崎邸庭園配置図カラー部分は、現在の「都立旧岩崎邸庭園」。グレー部分は岩崎家が邸宅として使用していた敷地全体。
洋館北側(玄関側)
洋館南側(ベランダ側)及び東側(サンルーム側)
サンルーム部分は明治40年に増築された。
上の久弥の家族の写真は、このサンルームで撮影されたもの。
撞球室
洋館2階から見た和館の屋根。洋館と和館は結合されており、廊下で結ばれている。
金唐革紙:洋館2階客室壁面に貼られている。
手漉き和紙に銀箔を貼り、版木棒に彫られた模様を写し取り色漆で彩色、
黄金色の輝き。見事です!!!!!
金唐革紙:
http://www.handmadejapan.com/features_/ft008_01.htm
和館にはいたる所に”菱”のデザインが凝らされています 釘隠し
襖の引き手
広間の欄間
書院の組子
大広間の壁に描かれた、橋本雅邦の「富士山に波」。退色が酷く波は確認できなかった。
芝庭の脇にある雪見灯籠。芝庭は池だった場所を埋めたものとのことなので、
この灯籠は弥太郎時代のものかも?。弥太郎は少年時代庭石を日本列島の形に配置したほどの庭園好き。現在の「都立六義園」「都立清澄庭園」も弥太郎が買取ったもの。
どっしりとした弥太郎の風貌と似合いの雪見灯籠だと思いたいのですが---------