2009年09月14日
龍馬や亀山社中(海援隊)メンバーの写真が多いのは何故?
水曜日22:00NHK総合テレビ歴史秘話ヒストリア、2009年6月24日放送からの情報です。
龍馬の現存する写真は7枚、同時代の人物では徳川慶喜に次ぐそうです。龍馬が立ち上げたベンチャー運送商社「亀山社中」、ひとつの団体のメンバーの写真が多いのも非常に稀なことです。
長崎には日本初の商業写真家「上野彦馬」が開設した上野撮影局があったから?
海援隊の給料は隊長の龍馬以下同額で3両2分約¥150,000位、上野撮影局の写真は1枚¥30,000位と高価だったのにお金はどうしたの?
龍馬の現存する写真は7枚、同時代の人物では徳川慶喜に次ぐそうです。龍馬が立ち上げたベンチャー運送商社「亀山社中」、ひとつの団体のメンバーの写真が多いのも非常に稀なことです。
長崎には日本初の商業写真家「上野彦馬」が開設した上野撮影局があったから?
海援隊の給料は隊長の龍馬以下同額で3両2分約¥150,000位、上野撮影局の写真は1枚¥30,000位と高価だったのにお金はどうしたの?
メンバーの多くは土佐藩を脱藩した下級武士が多く、彦馬先生の弟子には土佐藩の若者もおり、彦馬先生が留守の時に勝手に撮ったのではという話でした
よく見かける写真ですが龍馬はよれよれの袴に、靴だけは当時長崎に居た外国商人と同じサイドゴアのブーツで一点豪華、海援隊のメンバーは身分制度の厳しい土佐では上級武士にしか許されていなかった高下駄を履いている。高下駄は上級武士へのあこがれ、龍馬のブーツは
”目指したのはもっと大きな海の向こうの世界”を示しているのでしょう。
町人(饅頭屋)の出身である近藤長次郎だけは、高下駄を履かず藁草履で体格とは不釣合いな長い刀、そして右手には西洋文明を象徴するピストルを握っている。
長次郎は龍馬から任された長州藩との巨額の取引を成功させ、長州藩から得た謝礼金とトーマス・グラバーのつてにより密かにイギリスへ留学しようとした。ところが天候が悪く出港が遅れたため海援隊のメンバーに計画が露見。独断で計画した事が「海援隊約規」に違反したとして、メンバーから咎められ小曽根邸の梅の間で切腹した、享年29歳。
町人に生まれ身分制度の壁から抜け出し、もっと自由な世界で活躍することを夢みた長次郎の望みは果たすことができなかった。
長次郎の墓は晧台寺(長崎市寺町)の後山にある豪商・小曽根家の墓地内にあり「長崎さるく」のコースになっています。墓碑の「梅花書屋氏墓」の文字は龍馬筆と言われています。
8月1日付の長崎新聞に近藤長次郎のひ孫の方と坂本家9代目当主の方が改装オープンした「亀山社中記念館」(長崎市伊良林2丁目)で再会された記事がありました。
龍馬が活躍した時代、小曽根家には長男乾堂、次男清三郎、三男正雄、四男英四郎と四人の兄弟がおり、龍馬達の面倒をみたのは末弟の英四郎。晧台寺(長崎市寺町)の墓は英四郎の墓で本家乾堂の墓は長崎市東琴平1丁目の鍋冠山の中腹にあるそうです。
Posted by 在京長崎応援団塾 at 18:33│Comments(0)
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