2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」でした。主演は長崎出身の福山雅治。「龍馬伝」を楽しめる情報を発信するブログです!

2009年12月02日

「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!

 龍馬の妻お龍の長崎滞在を描いた歴史小説「お龍さんの長崎日和」が11月2日に長崎新聞社から出版されました。著者は、小曽根家17代当主小曽根吉郎さんの妻育代さん(1947年生まれ)。
B5判290ページ ¥1,470(送料¥160)
「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!



 慶応2年(1866)1月、お龍が働いていた京都伏見の船宿「寺田屋」で龍馬が三吉慎蔵と密談中、幕吏に襲撃された際、入浴中のお龍が機転を利かせ龍馬達を救った。
 指を負傷した龍馬は、薩摩藩の西郷吉之助・小松帯刀等の勧めを受けお龍とともに湯治のため鹿児島へ向かう。この鹿児島、霧島方面への旅が「日本最初の新婚旅行」と言われている。
 その後6月に、お龍は龍馬とともに桜島丸(ユニオン号)で鹿児島から長崎に入り、翌年慶応3年(1867)2月に長崎から下関へ移るまでの約8ケ月間を小曽根邸に逗留した。

 著書では
・小曽根家の初代平戸道喜は生糸貿易で財をなし、寛永11年(1634)出島を造った「出島25町人」の一人。
・龍馬が活躍した当時、小曽根家には長男乾堂(けんどう)、次男清三郎、三男正雄、四男英四郎と4人の兄弟がいた。
・小曽根家13代を継いだ乾堂は、もとは本博多町の小曽根邸(現町名は万才町、現長崎地方法務局があるところ)に住んでいたが、浪の平一帯の埋立事業をして港湾を整備、万延元年(1860)に父六左衛門とともに小曽根町に居を移した。
・乾堂は、龍馬をはじめ各藩からの遊学者、脱藩の志士達を支援。公家、大名、家老、学者、医者からの信望も厚く、勝海舟とも昵懇の仲であった。
・乾堂は篆刻、書道、月琴の名手でもあった。
・本博多町の小曽根邸には英四郎が住み、亀山社中の屯所にもなっていた。
・乾堂はじめ各兄弟は、龍馬とは各々深い交わりがあり、龍馬に多くの支援をしたが、乾堂と他の兄弟とは何かしらの理由で疎遠であった。
・お龍は小曽根町の乾堂の豪邸に住み、乾堂の妻お常が面倒をみた。
 等が描かれています。



*「長崎さるく」のコースにもなっている「小曽根邸の跡」は乾堂が小曽根町に移った後は、英四郎が住み亀山社中の屯所にもなっていた。今は長崎地方法務局になっている。
「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!



 これまで読んだ書物でも、お龍が長崎で月琴を習った事、小曽根家が亀山社中を支援したこと等は描かれていますが、今回の著書では長男乾堂さんと四男英四郎さんの関係・龍馬が小曽根町の乾堂邸と本博多町の英四郎邸、亀山社中(伊良林町)そして丸山遊郭を頻繁に往来した事。お龍の日常生活を通して幕末長崎の生活や行事などが詳細に描かれており大変興味深い内容でした。

 8月29日に「長崎さるく、日本近代化の鼓動は長崎から」のコースに参加し、晧台寺(長崎市寺町)の小曽根家(英四郎)の墓地に行きました。
 墓地内には、亀山社中のメンバーであった近藤長次郎の墓もあります。
「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!

 近藤長次郎は、龍馬から任された長州藩との巨額の取引を成功させ、長州藩から得た謝礼金とトーマス・グラバーのつてにより密かにイギリスへ留学しようとしたが、独断で計画したことが露見し「海援隊約規」に違反したことを他のメンバーに咎められ本博多の小曽根英四郎邸の離れ「梅花書屋」で切腹した。

 なお小曽根本家は小曽根町にあり、墓は長崎市東琴平の鍋冠山の中腹にあるそうです。



 ところで実はビックリがありました。13年前に亡くなった自分の親父は石工でした。
小曽根家(晧台寺、英四郎)の墓地にある「小曽根分家墓」の工事をしている親父の写真がありました。
上が工事中の写真。下の写真は8月29日「長崎さるく」に参加した時のものです。

「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!

「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!


 

ついでに紹介させてもらいますが、親父の工事したものに下記の写真もあります。
シーボルトの鳴滝塾跡の工事。1963.3.16
「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!



ケー・ペー・ツュンベリーの記念碑です。ツュンベリーは、シーボルトやケンフェルとともに出島3学者のひとりと裏面に日本語で彫られています。この記念碑は日本植物学会が建立したもののようです。
諏訪神社に隣接している「長崎公園」の入り口に設置されています。1957.3
「お龍さんの長崎日和」(小曽根育代著)を読みました!





 他にも出島の庭園にある石橋「かぴたん橋」もそうです。石の欄干には、今でも親父の名前があるのを読むことができます。出島に行かれたら見つけていただければ嬉しいです。
 出島には復元された石蔵が2棟ありますが、旧石倉の復元工事にも携わっていたと記憶しています。





Posted by 在京長崎応援団塾 at 11:41│Comments(5)
この記事へのコメント
小曽根家と龍馬の関わり、さらに、石工であったお父上との関わりについて
大変興味深く読ませていただきました。
明日、20名ほどで長崎探訪に行く予定で「小曽根分家」のお墓にお参りできればよいがと思っています。
これから、長崎で石碑を見るときは、石工の方のお名前もきちんと見ていきたいと思います。目のつけどころを教えていただきありがとうございました。
これからも、長崎と龍馬、幕末の長崎について発信して下さい。
Posted by きのさん at 2010年01月14日 23:22
坂本龍馬の小説を書いております。幕末物1200枚まで進んだのですが、詳細について詰めているのですが、長崎時代のお龍と龍馬の生活ぶりを場面として入れたいのですが、小曽根家との関係を調べてまして、参考になりました。ありがとうございます。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2010年02月04日 00:31
坂本龍馬の小説、五百枚進みました。
色々参考になりました。ありがとうございます。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2010年02月27日 18:58
坂本龍馬の小説、五百枚進みました。
色々参考になりました。ありがとうございます。
Posted by 石塚邦男 at 2010年02月27日 19:08
色々勉強して龍馬の小説書いてます。
Posted by 根保孝栄・石塚邦男 at 2010年02月27日 19:10
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