2010年の大河ドラマは、三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」の視線を通して描かれた「龍馬伝」でした。主演は長崎出身の福山雅治。「龍馬伝」を楽しめる情報を発信するブログです!

2010年02月21日

岩崎弥太郎について。サムライ詩人(テレビ長崎放送)

岩崎弥太郎について。サムライ詩人(テレビ長崎放送)

       1835年(天保5年12月11日)~1885年(明治18年2月7日)没

 1月23日(土)及び24日(日)に九州、四国地方でテレビ放映された歴史ドキュメンタリー「風に向かって~サムライ詩人 岩崎弥太郎」(KTN テレビ長崎製作)の録画ビデオを入手し観ました。

 既に大河ドラマ「龍馬伝」で描かれているように弥太郎は、郷士の株を売ってしまった半農半士の地下浪人の貧しい家の長男として生まれた。(曽祖父の代に郷士の株を売ったらしい)

 番組は、弥太郎が残した詩や日記をもとに展開する。豪胆・無類の女好き・政商と言われた弥太郎だが、幼少期から文才を発揮。繊細な浪漫的な詩を生涯に亘り残しているそうです

・さだめない身というわけではないが 若いこころ抑えがたく 満天の星の下ひとりさまよう

・たまたま この丘に登り 菊の一枝を手折れば

・露のはらはらと散るのも 旅する雁の哀しみにかよう

・まるで夢のなかだ 千里あつまっては散る雲


・一杯の酒にも似て 眼をうるませる山水の美




14歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才能を認められている。
 
 車も馬もすみやかに東へ走る
 ときは10月いずこの眺めもうららかだ
 小春日和のめでたさに
 ふたたび梅も笑み咲けば
 鶯もまた のどをととのえ さえずるほどだ
 それでいて 秋のみのりの よろこびの 
 歌は村々からわき ありがたい時代をたたえる
 これも ひとえに藩侯の 大きなめぐみのたまもの
 その海のような恩情は たちまち山家(やまが)の少年をも洗う



 1854年、19歳の時に江戸へ遊学。江戸へ経つにあたり、村内の星神社で
我志を得ずんば 再びこの山に上がらずと決意している。
 江戸の「安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入塾。安積艮斎は江戸で一番の名文家で空虚な言葉ではなく、意味のある言葉使いを学ぶ。しかし父弥次郎が酒席での喧嘩により投獄された事を知り、2年間で土佐へ帰る。父親の免罪を執拗に訴えたことにより弥太郎も7ケ月間投獄される。
 牢仲間から算盤、したたかな商人からは商売で儲けるコツなど、後の実業の世界で役に立つ知識を得た。(転んでもただでは起きない!)
 その後、吉田東洋が参政となると、これに仕え藩吏の一員として1859年、24歳で長崎に派遣される。目的は当時世界の情勢を知る重要な場所である長崎で、西洋列強の国々の状況を調査することであり、オランダ商館の医師・シーボルト等とも会っているが、外国語が判らず苦労した。
 悶々とした1年間を弥太郎は丸山遊郭通い、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。
 27歳で弥太郎は喜勢を娶る。
吉田東洋が暗殺された後、1867年(慶応3年)東洋の甥で弥太郎より3歳下の後藤象二郎に土佐商会主任に抜擢され、再び長崎に赴く。土佐藩の貿易(弾薬の原料となる樟脳などを売り、ライフル銃や艦船を買った)
 土佐藩の外郭機関となった海援隊の金庫番も担当し、龍馬からの金銭の無心へも弥太郎の裁量で融通することもあったようです。
 後藤象二郎が弥太郎を重用したのは、後藤自身の経済感覚が乏しく放漫な経営に陥るのを防ぐためであった。
 弥太郎は、1度目の長崎での失敗を糧にイギリス人貿易商のウィリアム・オールト等外国商人とも対等に亘りあい、頻繁に丸山遊郭で接待するなど外国商人の心を掴む逞しい交渉術を駆使した。

 1867年(慶応3年)4月23日深夜に海援隊の大洲藩船いろは丸(168トン)と紀州藩船明光丸(878トン)が瀬戸内海で衝突し、いろは丸が沈没した際は、オールト邸で龍馬、後藤象二郎、弥太郎が対応を話しあったことが、弥太郎日記に書かれている。
 紀州償金の帖面をあい調ぶ 後藤公に至り 坂本龍馬とともに密談すと書かれているという。
番組を監修された歴史研究家で長崎県参与の本馬貞夫氏のコメントでは「弥太郎日記は、幕末長崎を知る1級の資料だ」ということでした。番組の監修者は、他に三菱史アナリストの成田誠一氏。
 いろは丸事件では、龍馬は万国公法を盾にいろは丸の正当性を主張、後藤象二郎は弥太郎とオールトの親密な関係を利用してイギリス領事およびイギリス海軍提督を交渉の場に参加させた。
 弥太郎と龍馬は世論操作を意図して船を沈めたその償いは金を取らずに国を取るの唄を丸山の芸妓衆に歌わせ流行らせた。

 龍馬暗殺、大政奉還、明治維新となり、長崎の土佐商会が閉鎖されると九十九商会を経て三菱商会となり弥太郎が経営する個人企業となった。

 弥太郎は武士から商人への意識改革のため、社員へ①お客さまを小判と思って頭を下げろ②おかめの面を壁にかけ、おかめの顔を真似をしろ(笑顔で接客)を徹底させたそうです。使用していたおかめの面は現存するそうです

 三菱商会は、1874年(明治7年)台湾出兵に際して、他の国内及び外国の海運会社が避けた軍事輸送を引き受けたことで政府の信任を得、政府の仕事を受注することで大きく発展した。
台湾出兵の軍事輸送業務を始めるにあたり、下記は弥太郎が書いた建白書の一節だそうです。

 海路の利便を図らなければ、全国土の発展は無いことを示唆している。
 海上輸送の利便は、そのまま人々の交流を活発にし産業の発展にも寄与する。
 私はこれまで挫折することばかりで失意に沈むことが多かった。
 ただ幸いにも、不撓不屈の精神でもって自らを鼓舞し、人の千倍努力する覚悟で色々手段を尽
 くすことによって、一つの商社を創業することができた。
 苦心惨憺したが、思うところ百分の一もできず嘆息するばかり。
 それでも嘆いてばかりはいられない。
 勇気を奮って あらゆる困難を克服し打開の道を求めて 日々昼夜奔走しているところである。



  その後三菱商会の後ろ盾となっていた大久保利通の暗殺、大隈重信の失脚により、渋沢栄一等の三井財閥を中心としたアンチ三菱財閥が共同運輸会社を設立、海運業の約4分の3を占めていた三菱商会と政府の援助も受けた共同運輸会社との壮烈なダンピング合戦は2年半続いた、弥太郎は、この競争の最中1885年(明治18年)胃がんで死去した、享年50歳。
 弥太郎の死後、三菱商会は共同運輸会社と合併し日本郵船となった。

 ときには政府から支援を受け、ときには政府の弾圧に立ち向かい動乱の幕末・明治維新を駆け抜けた弥太郎は”サムライであり、詩人であり、大商人であった

 龍馬が目指し果たせなかった海外への夢は、結果的には弥太郎の手により具現化する礎を築いたように思います




 


Posted by 在京長崎応援団塾 at 08:38│Comments(0)
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